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『濡羽の家の祟り婚 春の章 渇き』第一章(一)

『濡羽の家の祟り婚 春の章 渇き』は物語の主人公となって聴く物語仕立ての音声コンテンツです。CDや音声配信で購入できます。このnoteはノベライズ(小説版)の一部になります。

序章⇒



■第一章

 千代たちが喫茶室に到着すると、店のボーイが正和の席へと案内をしてくれた。

「あちらでお待ちです」

 千代はやや遠目に正和を見た瞬間、すぐに恥ずかしくなり顔を伏せた。美男子だった。それは男に疎い千代でも分かった。ひとり煙草をふかす姿はあまりにも様になっており、モダンなスーツ姿は店の中でもひと際目を引いた。

 あの方が正和さん……。

 千代は顔を伏せたまま足を進めた。弘子と自分の足元だけを見て歩いた。千代は動悸のようなものがするのを感じながらいたたまれない気持ちになっていた。自分のような娘があんな方と夫婦になるなんて。

 弘子が足を止めたので、千代も慌てて歩みを止める。

「ああ、お待ちしておりました」

 千代はびくりと体を震わせた。正和が、灰皿に煙草を押しつけ立ち上がる。そうすれば千代の視界には正和の靴が目に入った。

「このたびはありがとうございます。千代の母、弘子と申します」

 弘子が会釈をした気配を感じて千代も頭を下げる。千代は緊張で耳の奥がキンキンした。

「初めまして。松本正和と申します。お父上には御生前――、ああ、立ち話とはおかしいですね。どうぞ、お掛けになってください」

 再度、弘子も千代も軽く頭を下げて椅子に座った。柔らかな弾力のある椅子に腰をおろすと、千代は思わず息が零れそうになるのをぐっと堪えた。ここまで緊張しているのも、先ほどから顔を上げられずにいるのも失礼だと思うのだが、どうしても千代は顔を上げられなかった。

「遠いところをお呼びだてし、申し訳ありませんでした」

「いいえ、とんでもございません」

 まさに好青年と言わんばかりの声音であったし、その笑みも好青年そのものであったのだが、顔を上げない千代は知る由もない。正和は数秒ほどじっと千代を見つめてから、ふたりの前へメニューを差し出した。

「どうぞ。お好きなものを選んでください」

「ありがとうございます。……では珈琲を。千代も同じで構わないわね?」

「はい」

 千代は蚊の鳴くような声で返事をした。だが正和は一向に気にしないどころか満足そうに微笑み、軽く片手を上げる。

「ああ、君。注文いいかな?」

 ボーイがすぐに席へ寄り、頭を下げる。

「こちらのご婦人方に珈琲をふたつ」

「かしこまりました」

 正和は改めてふたりを見た。目の前の母娘を交互に見やって少し目を細める。その表情は実直そのもので、弘子はひっそりと安堵のため息を吐いた。

「――さて」

 千代が少しだけ顔を上げる。うつむき気味の頬はわずかに上気しているようにも見えたが、正和は分からないと思っていた。ただ恥じらっているのか化粧か、女というのは分からないからな。正和がそのようなことを考えているなど目の前のふたりは予想もしないのだが、それでも正和は慎重に笑みを深くした。

「お会いできて光栄です。お父上から、話はたくさん聞かせていただいていたんですよ」

 正和はテーブルの上で両の手を組み、わずかに身を乗り出す。

「――しっかりした、可愛らしいお嬢さんだと」

 千代は小さく震えた。こんな時には、どのように答えればよいのかもちろん千代は知らない。弘子はちらりと千代を見て口を開いた。

「主人がそのように申していたなんて。千代をとても可愛がっておりましたので。親の贔屓目ですわ」

「そんなことはありません。お会いした瞬間、驚いたほどです。溺愛せずにはいられなかったでしょうね」

 弘子と正和の間に和んだ笑いが起こった。千代だけは緊張のせいで申し訳程度に口元を緩めて微笑むだけであったが、正和はそれが気に入った様子でまた笑みが深くなった。

「私のことはお父上からお聞きでしょうが。私の商売が軌道に乗った頃、商工会の会合で懇意にしていただきましてね。それから親しくお付き合いを賜り、市内に入院されてからはお見舞いにも度々伺いましたが……」

 明朗に話していた正和だったが、そこでいったん言葉を切った。先ほどまで浮かんでいた笑みがゆっくりと陰り、沈痛な面持ちで短い息が吐き出される。

「まさか、こんなに急にお亡くなりになるとは」

 千代が顔を上げた。正和と視線が絡み、千代の柳眉がぴくりと動く。それでも、ふたりの絡んだ視線は一度絡んだが最後と言わんばかりに逸らされることはなかった。

「残念です。まだまだご教授いただきたいことが、たくさんありましたから」

 千代は、胸が締めつけられるような思いがした。この方は父の死を心から悼んでくださっている。千代は父、清のことを思い出しながら正和の目を見つめた。そのまなじりや唇の形に父の面影があるような気がして、まさかそんなはずはないのにおかしいわ、と亡き父への恋しさが浮かんだ。

 父、清は忙しい人で仕事でよく出かけていた。千代の思い出の中には、いつも忙しない父の姿が刻まれている。それでもよく懐いていた。

「お待たせいたしました」

 一時の見つめ合いはボーイの声で断ち切られた。千代と弘子の前へ良い香りを放つ珈琲が置かれる。一礼するボーイに正和は、ああ、ありがとう、と礼を述べた。

 やはりいい人なのだわ、と千代は思った。

「どうぞ。召し上がってください」

 千代は会釈をして、珈琲の中へ砂糖とミルクを溶かし込んだ。正和が千代の手元を見ている。顔を上げなくとも分かる視線に、千代はまた鼓動がおかしな速さを刻むのを感じた。どうしたのかしら私、と千代は小さく震えそうになる指先に戸惑い、珈琲をかき混ぜるスプーンを早々に受け皿へ置いた。

「さぞお心細いことでしょうね。家長がご不在では」

 珈琲に口をつける千代と弘子を見ながら正和が言った。それからすぐに、再度身を乗り出して真剣な面持ちでふたりを見つめる。

「ですが、ご安心ください。私はお父上からお嬢さんを大事にするよう、重々頼まれました。こんなに素敵なお嬢さんなのに、婿のなり手が、と」

 弘子が珈琲カップを置いた。何か言いたげにしてから、心強いですわ、とだけ答える。

「このご時世に、くだらない言い伝えを信じている者がそれほど多くいるということに驚きましたが、私は違う。私を頼りにしてください、お父上の代わりに。私はかたく約束を交わしたのです。必ずお嬢さんを幸せにすると」

「あの、でも」

 弘子はじっと正和の顔を見た。でも。ともう一度言って口ごもる。千代は不思議に思い母を見た。先ほどまではこの結婚にとても乗り気だった。だがいつからか落ち着かない様子を見せている。千代が気づいたのは千代が珈琲カップを置いたたった今だったけれど、その様子がいつからかといえば、次第にといった様子だった。

 弘子はちらりととなりに座る千代へ視線をやり、それから再度正和を見た。少しだが顔が青ざめている。正和はほぼ完璧な笑みを浮かべた。

「私は軽い気持ちで申し上げているのではありません。お父上との約束は必ず違えないとこの身に誓い、そして千代さん。貴女を見た瞬間にその決意はよりかたいものとなりました」

「でも少々……、その、性急過ぎるのではと思いまして。まだ裳も明けぬうちからというのがやはりどうも……」

 千代は違和感を覚えた。突然母はどうしたのだろうか。あんなにも張り切っていたというのに。けれど正和は気を悪くする様子もなく、深く頷いた。

「ええ。お父上と約束したと言っても、お嬢さんご本人の意思が大切です。今すぐ返事を、とは申しません。――今日、初めて顔を合わせたのですからね」

 千代の鼓動は今度は大きく跳ねた。正和のような青年に、このように好意や笑みを向けられたことがない。奥手な千代が意識するのは無理もなかった。

 その横で、弘子はまた正和の顔を見つめている。正和は今度は弘子へ顔を向け、軽く首を傾げて口を開いた。

「先ほどからどうかなさいましたか? 奥様。私の顔に何かついていますか?」

「い、いえ」

 明らかにおかしい、と千代は思った。

「本当に、迷信のことでしたら私は気にしておりません。身内も皆他界しておりますので、家筋のことで口を挟む人間もいませんし。どうぞご安心ください」

「そう、ですの。けれど」

 また弘子は口ごもった。先ほどからどうもおかしい。千代も母に何か問おうとした矢先、腰を低くしたボーイがすぐそばで頭を下げた。

「お話し中、大変失礼いたします。谷弘子さまへ電報が届いております」

「私へ? どうもありがとう」

 弘子が電報を受け取ると、正和は気になさらず、と電報を確認するよう促した。中を確認した弘子が戸惑うようにあの、と瞬きをする。

「お急ぎの用では?」

 正和が気遣うような言い方で口を挟んだ。

「ええ。こんな時ですのに。すみません、主人が大変お世話になった方からのご連絡で」

「上条子爵ですか?」

「え、ええ。そうですの。すぐ近くの御料亭にいらっしゃるとのことでお呼び出しが」

 そこまで言って弘子は目線を斜め下へ落とした。そうして独り言のように、でも急にこんなご連絡を、どうして、とどうも腑に落ちないような顔をしている。

 正和はいかにもな好青年の笑みを弘子に向けた。

「私も、上条子爵のことはよく存じ上げております。谷さんと懇意にされておりましたので。どうぞ、子爵のお招きをお受け下さい」

「でも」

 弘子は心配で堪らないといった顔で千代を見た。けれど上条子爵の呼び出しとあらば、出向かないわけにはいかないのだろう。落ち着きなく視線を泳がせている。

「奥様。子爵をお待たせしてはいけません。お嬢さんは私が責任を持ってお預かりいたしますから」

 千代は、正和と突然ふたりになることに動揺した。それに、足の悪い弘子をひとりで行かせるのは心配だ。けれどもここで自分まで席を立つわけにはいかない。

 弘子も思案顔を千代と正和へ交互に向けたのち、決断を下して静かに腰を上げた。

「ではよろしくお願いいたします」

 丁寧に頭を下げ、千代失礼のないようにね、と言い残すと席を離れる。正和は弘子の後ろ姿を見送った。びっこを引く小さな後ろ姿を、ただ何も言わずに見つめている。だがやがて、千代へ視線を戻して微笑んだ。

「さて。お母様は行ってしまわれましたし……、あの窓の外。見事な桜です。こぼれんばかりに咲き誇っています」

 言われるままに千代は窓の外へ視線をやった。確かに立派な桜の木だ。

「綺麗ですね」

 千代は心のままにそう答えていた。

「あの桜を、見に行きませんか?」



この続きは『濡羽の家の祟り婚 春の章 渇き』ノベライズでお楽しみいただけます。

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