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柳田國男の「橋姫」を脱線する#10 謡いについて(後)
はじめに
柳田國男の「橋姫」を読んでいく10回目になります。
初回↓
これまで、「橋姫」の物語に見られる様々な要素を分解し、それぞれについて見ています。既に「産女」という要素は確認しました。
今回は前回に引き続き「謡い」です。
前回↓
12.謡いについて(後篇)
しかし他の場合には理由の明白なるものもあるのである。例へば近頃出來た「名古屋市史」の風俗編に、尾張の熱田で「楊貴妃」の謠を決してうたはなかつたのは、以前この境内を蓬萊宮と稱し、唐の楊貴妃の墳があるといふ妙な話があつたためで、
「新撰陸奧風土記」卷四に、磐城伊具郡尾山村の東光院といふ古い寺で、寺僧が「道成寺」の謠を聞くことを避けてゐたのは、かの日高川で清姫が蛇になつて追ひかけたといふ安珍僧都が、實はこの寺第三世の住職であつたためであるといつてゐる。
信濃の善光寺へ越中の方から參る上路越の山道で「山姥」の謠を吟ずることは禁物と、「笈埃随筆」卷七に書いてある理由などは、恐らくはくだ〳〵しくこれを述べる必要もないであらう。
しからばたち戻つて前の甲州國玉の逢橋の上で、通行人が「葵の上」を謠ふと暗くなつて道を失ふと「裏見寒話」にあり、近代になつては「野宮」がいかぬといふことになつたのはそも如何。
これは謠といふものを知らぬ若い人たちでも、「源氏物語」を讀んだことのある方にはすぐ推察できることである。つまり「葵の上」は女の嫉妬を描いた一曲であつて、紫式部の物語の中で最も嫉みの深い婦人、六條の御息所といふ人と、賀茂の祭の日に衝突して、その恨みのために取殺されたのが葵の上である。「野宮」といふのもいはゆる源氏物の謠の一つで、右の六條の御息所の靈をシテとする後日譚を趣向したものであるから、結局は女と女との争ひを主題にした謠曲を、この橋の女神が好まれなかつたのである。
「三輪」を謠へば再び道が明るくなるといふ仔細はまだ分らぬが、古代史で有名な三輪の神様が人間の娘と夫婦の語らひをなされ、苧環の絲を引いて神の驗の杉の木の上に御姿を示されたといふ話を作つたもので、その末の方には「又常闇の雲晴れて云々」或ひは「其關の戸の夜も明け云々」などゝいふ文句がある。
しかしいづれにしても橋姫の信仰なるものは、謠曲などの出來た時代よりもずっと古くからあるは勿論、「源氏物語」の時代よりもさらにまた前からあつたことは、現にその物語の中に橋姫といふ一卷のあるのを見てもわかるので、これにはたゞどうして後世に、そんな謠を憎む好むといふ話が語らるゝに至つたかを、考へて見ればよいのである。
33.「名古屋市史」楊貴妃
『名古屋市史』は、1915年(大正4年)~のものと、1953年(昭和28年)~のものと、1997年(平成9年)~の『新修名古屋市史』がありますが、國男の「橋姫」が発表されたのは大正7年なので、一番古い『名古屋市史』の風俗編を確認してみましょう。
記述されている位置が厄介なのですが、風俗編、第二章「傳説」の中の、「三 蓬莱」項の次に、「参考」として蓬莱に関する資料を挙げた後、「右に擧がる如く」の該当本文があります。さらに、その後に「追加」もあるため、何段階かに分けて増補したのでしょうか。
右に擧がる如く、熱田を蓬萊といふ事は、六百餘年のむかし、貞應二年の海道記にはじめて見えたれど、其以前より世にいひならはしたる事なるべし、されど元來世俗の浮説なれば、たしかなる國史、正史等にはさらに見えず、貴妃の祠幷五輪等有し事は甚あやしく、今いかにとも辨へがたし、今も猶熱田の地にては、楊貴妃の謠曲をうたふ事をいむと云り、これらの事、今現にいひ傳ふるはあやしき事ながら、古き俗説の殘れる也、又社内にて蓬を取るを吉瑞として、參詣する者探り索る事あれど、適〻ならでは得る事なしといへり、蓬萊といふよりかゝる諺もあるなるべし、徐福の事も右に擧たる如くにて、熱田にはさらにいひ傳へたる説もなく、物にも見えず、
・風俗編 第二章 傳説 蓬萊 参考 幾つかの文献を挙げたる後に書きたる
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国会図書館デジタルコレクション
熱田を蓬莱という、という説があったようです。
ただ、ここでも俗説であって信頼できるものではないとしています。
熱田で「楊貴妃」の謡曲を謡うことを忌む伝えも、古き俗説として否定的です。
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一応おおもとの本文を確認してみると、中国から見て蓬莱という場所が日本に三ヶ所もあったそうです。熊野、富士、熱田の三ヶ所であり、熱田が蓬莱と言われる由縁です。
さらに、この次の項の「四 楊貴妃」も見ておきましょう。
四 楊貴妃
熱田神宮境内清水者の辺に、楊貴妃の石塔とて小五輪形の石ありき、
貞享三年、神宮修理の時廃絶して、今は其伝説のみ残れり、唐玄宗、日本を取らんと、時に熱田の神楊貴妃に化し、玄宗の心を乱し、日本を討つの謀を止め給ひぬ。後また貴妃馬嵬ヶ原にて殺されしを、方士を遣はしてそが魂を尋ねられしに、太真殿とありし額を見て、貴妃の有りと云へる蓬莱山にこそとて参りけるとなん、是れ熱田の社なり、故に其後は此地を蓮ヶ島ともいへり、方士を蓬莱に遣はすことは、長恨歌に作りたる小説なり、暁風集に熱田大明神は楊貴妃なりとあり、随つて楊貴妃といふ謡曲も出来、仏像図絵に日蓮宗の三十番神の像に、熱田大神を楊貴妃の様に書きなしたり、一説にかの五輪塔は楊貴妃が立てられし経塚を誤れるにやあらんと云へり
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国立国会図書館デジタルコレクション
玄宗皇帝が日本を攻めようとしていたのを、熱田の神が楊貴妃になって、玄宗をたらしこむことで防いだと言います。
しかも、亡くなった楊貴妃の魂を求めて、蓬莱山に向かいますが、そこが熱田だったというのです。
まぁなんとなく関係性は見えてきますが、謡曲を禁忌とするのはなぜでしょうか。
34.「新撰陸奧風土記」道成寺
この記事は7年前に集めていた資料を再編集して作っているものですが、ここに来て収集しきれていない資料があることが分かりました。
遠い記憶で、最後まで集め切ったものだと思っていたのですが、いや寧ろ集め切ることができなかったので、頓挫していたのかもしれません。
今探してみると、国立国会図書館デジタルコレクションに公開されていました。これは本当にありがたいのですが、何度読んでも該当する記述が見つかりません。
7年前にも探していたのかもしれません。見つけられなかったので、空白だったのかも?
見落としているかもしれないので、もし見つけたら教えてください。
保田光則 著『新撰陸奥風土記』10巻,歴史図書社,1980.11.
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/9570404/1/104
35.「笈埃随筆」山姥
『笈埃随筆』(きゅうあいずいひつ)は江戸時代中期の百井塘雨(ももいとうう)が著した紀行です。
これは国男の言う通り巻之七にありました。
越後より信州善光寺へ参詣するに、上道下道あげろ越とて、三筋の大難所ありて、多くの谷峯を越ゆる也。或は葛を以て橋となせる川など有て、なか〳〵容易に至り難き道なれば、本道を十度参らんよりは、此道を歩行にて、一度参詣する功徳勝れたりとす。則あけろと云。糸魚川より五里上の村中に一つの林あり。昔山姥の住家なりとて、古松は両枝相さゝへ鳥居の形に似たり。此辺にて山姥の謡を吟ずる事を堅く禁止すといふ。〈案ずるに、上道下道あけろの三道とは不審。上道則上路ならんか。尋ぬべし。此謡曲も善光寺へ参る道すがら山姥に逢しといへりとぞ。〉
『日本随筆大成 第二期 12』日本随筆大成編輯部(昭和49年6月)吉川弘文館 p146
越後から信州善行寺へ参詣するということは、新潟県から長野県への道のりなのでしょう。
この道のりに難所があると言います。
糸魚川から五里なので、およそ20キロ上った村の中に林があり、山姥の家があったと言います。20キロも川を遡ると長野県に入ってしまうので、この村は長野にあるのでしょうか。
善行寺もまま近くにあるので、善行寺へ参る道すがらで山姥に逢うというのも、経路次第では納得の配置になっています。
36.「裏見寒話」葵の上、野宮
『裏見寒話』は以前紹介した部分についての言及です。
04『裏見寒話』
ここまで、楊貴妃と縁があるために「楊貴妃」が禁忌となり、道成寺と縁があるために禁忌となり、山姥が出るため禁忌となった、理由の明白な例を確認してきました。
そこで立ち戻って、最初に例示した『裏見寒話』にはどんな理由があるのでしょうか。
37.謡曲「葵の上」「野宮」「三輪」と源氏物語
「葵上」と「野宮」はどちらも『源氏物語』を題材にした謡曲で、どちらも女と女の争いが主題であるために、橋姫は好まなかったのだと言います。
「三輪」については、謡曲中に「晴れる」「明ける」という言葉があるからではないか、としています。
詳しくは既に#1能・謡曲で解釈しています。
おわりに
橋姫自体は、『源氏物語』第45帖の巻名が「橋姫」であることからも、古くからいたことがわかります。
後世になって、謡曲を憎む、好むという話が語られるようになったわけですが、それはなぜでしょうか。
次は、憎む・好むについて考えていきます。