分断があるけども,その場その場で生きている人たちは別にその分断に気付いていなくて,でも幸せに生きていて…
みんなのオンライン職員室(通称みん職)の「教育格差フォーラム」に参加しました。
1番のお目当てであった山邊鈴さんと野口晃菜さん(とファシリテーターの武田緑さん)のお話で気づいたことをまとめてみます。このnoteでは,できるだけ多くの人が潜在的なリソースに気づいて利用できるような情報を発信していきたいなあと思っていたのでした。
鈴さんのお話を聞くのは,noteも含めて3回目。
衝撃的なnoteから入り,Weekly Ochiaiでもお話を聞きました。
このnoteをもし!読んでいない方は,ぼくのnoteなんてどうでもよいのでこちらに移ってください笑
断片的に気になったところを切り取ってしまう形になってしまったので,正直読みにくいですが,ご了承ください~
やんちゃグループと話せる優等生
「あーわかるわかる」といったお話。
やんちゃグループと話せる優等生だったけど,大人になるに連れて,距離が離れて行っちゃうような気持ちがあって,そういう気持ち(ジクジク感)を持っている人が鈴さんのnoteに共感してバズったんじゃないかな。
これはこのイベントのディレクターでもある武田緑さんの原体験から出てきた言葉ですが、なんとなくこういう人とか状況とかが思い浮かぶ人も多いんじゃないかなあと思います。
緑さんは,学校に行く前にそういう友だちに「起きてる~?」と電話を掛け,鈴さんは,休み時間に勉強が苦手な友達に教える係(お世話係)を先生に命じられていたそうです。
緑さんは,電話を掛けた時に出たその子のお母さんが「まだ寝てるよ~」と答えた時に,(「じゃあ起こしてよ!」と思いながら)その家庭を不思議に思い,鈴さんは,勉強を教えても「ありがとう」と言ってくれないことに疑問を感じた経験をしています。
そのような原体験がおふたりの問題意識の根っこにあるようです。
ぼくが印象的だったのは,緑さんがそういったご友人と精神的距離を感じているのに対し,鈴さんがあまり感じていない点。鈴さんはその違いを経験した年齢の違い(緑さんが中高だったのに対し,鈴さんは小3くらい)をあげていましたが,なんか他にもありそうだなあと言語化したい気持ちがあります。(が,今は何も思い浮かびません笑)
片隅が片隅でなくなる瞬間
偏差値という値を付けられて、それが30だとしても困難校に行くとそれが普通になる。
マイノリティがマイノリティじゃない場所になっちゃう。「ふつう」になっちゃう。
鈴さんのお話には「ふつう」という言葉をたくさん出てきていて,そこに問題意識があるんだろうなあと思います。
自分は東京に行ったときに「井の中の蛙」状態に気づいたけど,地元に戻ると県内トップクラスの学校。先生も周りの人も「可能性だらけ」という。
そういった可能性格差に気付いている人はあまり多くなくて,無自覚的に子どもや友だちの可能性をなくしたり,小さくしたりすることがあるんじゃないかなあと思っています。
一方で,お話を聞きながらずっと考えていたのは,格差がある,分断があるけども,その場その場で生きている人たちは別にその格差や分断に気付いていなくて,でも幸せに生きていて…という場合も,「可能性を届けよう!」「格差をなくそう!」とした方がいいのかどうかということ。
このnoteも変えていこうという活動も自分のエゴなのかなあ~と思っちゃうことがあります。(それでも困っている人がいるのも間違いないと思うので,動き続けたいと思いますが)
じゃあ格差どうしよっか?
それでも行き着く先はどうしたら世界が良いように回っていくかということ(格差がただただなくなればいいと思っているわけではないのでこういう書き方にしておきます)。どう思われますか?
ぼくは、この対談の前の松岡先生が仰られていた
多くの人にこの本を手に取ってもらう必要がある
っていうのが当たり前と思えますが大事なこと何じゃないかなあって思っています。
ここで対談された御三方もそれぞれで発信活動や周りを巻き込んでいく活動を続けておられる方々で,自分たちの気づきやアイデアを色々な人と共有することを目指しているのではないかと思います。
つまり,多くの人にまず知ってもらうこと,っていうごくシンプルなところに行き着きますね。(あーでも,選択肢増えることが格差繋がることもあるって話もあったなあ)
とまあ、どうあがいてももやもやの終わり方にしかならないのですが、これからもっと考えていきたいテーマでもあります。ぼくの「教育格差」「分断」に関する勉強は始まったばかりなので,ゆっくり見守って頂けると嬉しいです!
ここまで読んでくださりありがとうございます。
京都は葉っぱが色づいてきました。