
待合室(草稿)
1
待合室に入るとそこにはワラビーがいた。
ワラビーといってもそれは象徴的、暗喩的、形而上学的存在としてのワラビーではなく具体的存在としてしっかりと存在感のある……つまらない言葉回しはやめよう。要は本物のワラビーがそこに居たって話なのだ。ワラビーはどこか心配そうにニンジンを齧りながら待合室の椅子にちょこんと腰かけていた。
こういう時僕らはしばしば声をかけがちである、それか写真を撮って言葉を添え、全世界に自分がどれほど奇妙な状況を見つけたか報告しがちである。しかし待合室の他の人はまったくの無関心といった体でてんでばらばらに各々がしたいこと──談笑したり、診察室の床を眺めたりといった日々の重要な些事──に没頭しており、ワラビーに気を回すことなど誰もしていなかった。そこで僕もワラビーを気にしないことに決めた。そもそも僕だってカレーのスパイスの配合についていくつかの記事を読むことに決めていたのだし。
待合での時間は恐ろしく長かった。誰かの名前が呼ばれ、くぐもって聞き取れない程度の声が診察室から聞こえ、それはいつまでたっても終わらない。と思えばその人は診察室からいつしか出てきておりお会計なんてしたりしている。ともすればすでに帰っていっていた筈の患者さんがまた最初から待合室で待ち始めていたりする。待合室にはゴシック体の文字ででかでかとこう書かれている。
順番は前後することがあります。
確かに順番は入れ代わり立ち代わり時に右に左にずれながら進んでいっていた。そうして気が付けば最後に僕とワラビーだけが待合室に取り残されていた。
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最初は二人ともおとなしく順番を待っていた。だって次に呼ばれるのはどっちかであり、それが終わればまたどちらかであることはほとんど水が下に流れるように自明であるように考えられたからだ。しかし実際のところ僕らが呼ばれることはなかった。それはもう全然無かった。待合室にはなぜかテレビも時計も置いていなかったものだから、僕らはどれくらい待たされているのかわからずにそこに座っていた。あいにく僕は時間を確認できるものをすべて忘れていたし、ワラビーは時計なんてつけない。僕らはひたすらに待ち続けることになる。だんだん日付の感覚がおかしくなっていくのを感じる。空腹感も失われていく。名前を呼ばれることだけに神経を集中し、診察室からは声一つしない。だんだんと焦燥感に支配され始める。そしてそろそろ僕はワラビーに声をかける必要があるなと悟り始める。
「順番なかなか呼ばれませんね、受付に聞いてみましょうか?」
と僕はワラビーに声をかける。ぶしつけかもしれないけどこれくらいしか思いつけなかったのだ。
「まぁゆっくり待ちましょうよ、そこの方。もし私一人で待たされていたらワラビー差別だって怒ってたかもしれないですけどそうでもなさそうですし」
貴方も待っていますものね、とワラビーはワラビー的ジョークを交えながらそう返してきた。ワラビーのあまりに毒っ気のない感じに僕も行動を起こす気力を失っていく。まぁ仕方ないか、という気になっていく。
にしても今日は暑いですねぇ、いやぁ困った困った。なんて言いながらワラビーはバドワイザーを開けて飲み始める。待合室でビールを開けるワラビーなんて、聞いたこともなかったが目の前にいるので見たことはあるということになる。
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そうして何時間、幾星霜が経ったかわからなくなってきたころ、診察室に中だるみのような雰囲気が流れ始めていた。
ワラビーが置いたバドワイザーは泡を時々思いついたように水面に浮かべはじけさせるがすっかりぬるくなっており、扇風機も心なしかやる気なく首を振る。僕はスパイスの記事も気が付けば鞄の底に入っていた小説もすべて読み切り、受付のお姉さんはネイルを塗り始めている。年代物の茶色いエアコンはそのすべての力を使って僕らの世界を冷やそうとしてしてくれるが、あいにく力が少し足りてないようだ。
そしてワラビーは、床に寝転がってすやすやと眠り始めていた。
僕はこの状況をすべて受け入れ、同時にやけくそになり、待合室にあるありきたりなゴシップを読み漁ることに心を決め、一向に名前が呼ばれないまま時間が過ぎ去っていこうとしたその時、少し状況が変わる出来事が起きた。
ゲームチェンジャーがやってきたのだ。
そいつは大変おしゃべりなカラスだった。僕は開けかけていたゴシック雑誌をそっと棚に戻そうとする。なんせカラスといえば……特にハシブトガラスと言えばゴシックと光物が大好きなのは周知の事実だからだ。
このカラスは町では有名なカラスで、しばしばこの町の底に流れるドロドロした人間関係をリークすることで人々が目を向けないようにしながら続けようとしている夫婦関係に次々ととどめの一撃を指すことでもよく知られている。
彼は-このカラスの名前はフィリップというのだが、このことを一種の社会的奉仕であると自負している。
彼は言う。一つ、結婚とは愛のなせる業である。二つ、愛がない結婚は不幸である。三つ、再婚は重罪である。彼は度々人々に語った。
フィリップは敬虔なカトリック教徒なのだ。
彼は彼らしく待合室の外から窓ガラスをコツコツコツと三回丁寧につつき、僕が渋々窓を開けてやるとさっと僕の膝に飛び乗るや否や恭しく羽で挨拶した。
「ご機嫌麗しゅうご主人様、待合室を出られない人とワラビーの話は今や町の人気トピックとなっていまして、ぜひぜひわたくしもお話を聞きたく参上した次第でございます」
誰がこの話題を人気にしたかなんて考えなくても分かる、フィリップだ。
僕はかかわりたくないので首を振る。フィリップにかかわってもろくなことにはならない。
ならばとフィリップはワラビーに問いかける。
「どうしてお二人は延々とこの待合室で呼ばれもしない名前が呼ばれるのを待っているんですか?」
ワラビーは答える。
「待合室ってのは待つところなんですよ」
あいにくこの二人の相性はあまりよくないみたいだ。
オーストラリアの大陸的感性の持つゆったりさは、フィリップのようなせわしなく飛び回るカラスにとってあまりにもかみ合いが悪いだろう。
だんだんと気まずい雰囲気が流れ始める。
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そうしてまた待合室は沈黙を取り戻す。僕は読書を二周目に突入させていくことに決め、ワラビーはしっかりと眠ることに決めたようだ。
そうしてフィリップといえば、彼は気まずい雰囲気が流れ始めた直後、待合室にいる時に名前を呼ばれた。そうして怪訝な顔でアナウンスを聞いた彼は(当然彼はこの病院に通おうとしたわけでもないので呼ばれるはずもないから)それでも引き寄せられるように診察室に向かい、それから三十分ほど何やら話し込んでいた。
そこでは最初は怒号が飛び交いその後に悲しみが語られ、そして納得がやってきたようであった。診察室を出たフィリップは我々のほうに見向きもせず、彼には似合わない神妙な顔で診察室で会計を待ち、そして会計を済ませると一言も発さず僕が開けた窓から飛び立っていった。彼が小さい声で母さん……となんども呟いていたことを僕は聞き逃さなかった。
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ゲームチェンジャーは診察で正気に返り、そしてこの病院は確かに通うべき実力があるのであろうことも分かり、そして僕とワラビーはまた診察室に取り残されることになった。
フィリップがいなくなった後の診察室は彼が来る前よりも一層さみしくなったように感じられた。待合でいつまで待つかわからない我々にとって、彼のような部外者の乱入はそれがどんな類のものであってもやはりありがたいものだったのかもしれない。
僕は考え始める。僕とワラビーの共通点はなんなのだろう。それが分かれば我々だけがこの診察室に呼ばれない理由も分かるというものだ。
そもそもこの病院に何を診察してもらおうと僕は思って予約してきたのだったろうか。思い出そうとするが頭にもやがかかったように思い出せない。
ワラビーのほうを見る、彼はオセアニア的怠惰さで椅子の下に体を丸め、ゆっくりしていたが、今やそんな彼と話し何かしらの情報を手に入れることこそが大事なのではないかと僕は思い直したのだ。
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「ワラビーさん」
「どうしたんですか?」
「どうしてあなたはこの病院に来たのですか?」
「どうして……?」
「我々は病を治すためにここにきているはずなんです」
と僕はワラビーに語りながら自分はどうしてここにいるのかわからないことに気が付く。
「それが実はよくわからないんですよ」
とワラビーはのんびりした声で答える。
「逆にあなたはなぜここに来たのか思い出せますか?」
そういわれて僕も核心を突かれた思いになる。
「実は僕もすっかり思い出せないんですよ」
と僕は正直に答える。
「それが我々が診察室に呼ばれない理由なのかもしれませんね」
とワラビーはぬるくなったバドワイザーを飲み干しながらのんびりと話す。
「ワラビーさんは普段どんな風に生活されているんですか?」
そこに共通点があるかもしれないと願いを込めて僕は問う。
「私は普段ワラビー的な生活を営んでいますよ」
つまり群れの中でのんびり生活して時々まどろみ食事をし、そしてバドワイザーを飲んで寝る、ってことです。と彼は語った。
「ただ、私もワラビー的生活をしていない時期がありました」
そうしてワラビーは語り始めた。
7
ワラビーとカンガルーの紛争が長く続いていたことはあなたもご存じでしょう?
と彼は語り始めた。
カンガルーは長年ワラビーを支配下に置き、ワラビーもそれを受け入れてきたが、近年の支配の苛烈さにワラビー側も堪忍袋の緒が切れ、WRA(Wallaby Republican Army)を結成しカンガルー側にテロを敢行するようになった。その後両者は問題の解決を図り、ワラビーに自治を認めることでこの紛争は一応の解決を見た。もちろん火種はまだくすぶっていてしばしば両者間の軽い衝突が起きている。
そんな中私は幼い頃紛争解決直後の非常にカンガルー側に近い場所のワラビー自治区で生活していました。と彼は僕に語った。
そこにはいまだにカンガルーとワラビー同士の生活があり、そして一部にはカンガルー達も住んでいたのです。
当時私は学生で、新しくなったワラビー自治領でその独立精神の高揚に充てられて華やかな気持ちで学校に通っていました。
そんな中彼が通っていた学校で彼は一匹のカンガルーに出会った。
そのカンガルーは貧しい家庭の出身で、紛争後も引っ越すことができずワラビー自治領にとどまることを選択したカンガルーであった。普通のカンガルーは例えワラビー自治領に住んでいたとしてもカンガルー用のインターナショナルスクールに通う。ただ学費がかかるので彼の家庭ではそれが払えず、結果地元の公立学校に通う選択肢しか彼にはなかった。
当然ながらワラビー自治領に残ったカンガルーなんて、そしてまだ紛争の記憶も新しいときであるのならなおさら攻撃の対象になることは免れなかった。カンガルーのワラビー迫害は苛烈だったし、クラスの中にはカンガルーの支配時代に憲兵に親を連れ去られそのまま二度と会うことができなかったワラビーもいたのだ。
「当時の私たちワラビーは自治を得た直後の高揚感と、自分たちの場所を得たというナショナリズムに酔っていたのかもしれません」
そしてそれを得るために私たちが払わなければいけなかった犠牲を私たちは非常に理不尽に感じていたのです。ワラビーはバドワイザーをぐびりとやりながら話し続ける。
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「しかし」
とワラビーは語った。
「最初のうち我々には一つのある空気が漂っていました。それは我々がカンガルーがやってきたような迫害をするわけにはいかないという、それはある種の義侠心のようなものでした。ワラビーにはカンガルーによって傷ついてきた歴史があり、やっとその歴史から解放されつつある今になって、そのような愚かな歴史を立場を変えて繰り返してはいけないという、それはそういう感情でした」
そうしてワラビー達と一匹の行き場のないカンガルーとの間で奇妙な学校生活が始まることになった。
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「当時の私にとって彼は気に食わない存在でした」
とワラビーは私に少し遠くを見つめるような表情で再び語り始める。
扇風機は首振りが怪しいままぶんぶん動き、私たちは固い待合室の緑のソファーに横並びになりながら会話を続けていった。受付嬢はネイルに飽き今度はもっと大胆に顔のお色直しを始めていた。彼女が受付に置いている麦茶の中の氷がカラン、と音を立てる。
「しかし同時に私は優等生として振舞いたいという欲望もあったのです」
なので彼はカンガルーに何か不利益なことがあったり、いじめの対象になりそうになると、優等生らしい理性的な言動で度々場を落ち着かせることがよくあったのだという。
最初自分もいじめの対象になるのではないかという怯えも少なからずあったが、当時ワラビーはクラスの中で一番の優等生で腕っぷしも強いのでそんなことを言う輩はおらず、むしろ周囲の尊敬を集めるまでになった。彼は革命家の精神の具体化である!と高揚する先生までいた。
彼は何かとそのカンガルーと授業でペアを組んだり、放課後一緒に帰るようになっていった。
件のカンガルーに対しての気に食わなさをどこかに持ち続けながら、それでも彼を守ることによって自らが優等生であることの証明をすることの快感もどこかにあったと今になれば思うのです。と彼は一息ついてバドワイザーを飲みほした。
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そんな彼のカンガルーへの態度がさらにマイナスに変わっていったのは、一つにはカンガルーの頭の良さがだんだんとみんなに知れ渡っていったからであった。
運動はもちろんどの教科もやらせれば常にクラスで一番になるようになり、しかも彼は穏やかな性格から決してそのことを自慢するような性質ではなかった。
次第に彼はクラスの中で一目おかれるようになり、ワラビーは最初から彼の応援をしていた者として、そして自らが最優秀の生徒ではなくなろうともカンガルーの能力を見抜き、ともに育とうとした人物であるという周囲の認識からより尊敬の念を得るようになっていった。
と同時に彼は周囲のワラビーから一つの期待を背負うことになる。それはこの学校で最優秀の生徒がカンガルーになってはならないという皆の焦りから発せられたもので、つまり彼が学校で一番の成績を奪還し皆の本当の規範(ワラビー中心主義において)になってほしいというものであった。
「そしてそのことが私のワラビー生に暗い影を落とすことになってしまったのです」
と彼は少しトーンダウンして語った。彼の手は震えているように見えた。
勿論ワラビーにとってこの展開はまったく喜ばしいものではなかった。彼はあくまで自分が上の立場から庇護者としてカンガルーを護っていることに一種の悦楽を感じていたのであり、そのためには当然これまでのように彼が成績面でもほかのあらゆる面においてもカンガルーに対して優越していなければいけなかったからだ。
そしてカンガルーの態度も彼には気に食わなかった。穏やかな表情で人格者、ただ学問ができるのではなく教養もあり、知らないことの飲み込みも素直で速かった。
「なによりもなによりも、奴は私の事を信用しきっていたのです」
カンガルーの明晰な頭脳を少しでも人疑ったり、学内の政治に使うことができれば、彼はもっと楽に生きられたはずなのに、彼はそんなことを一切しなかった。常に全力で自分のやりたいことをやり、笑顔を欠かさず、何よりもワラビーの事を人生における一番の友人であると信じて疑っていなかったのです。と彼は語った。
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「そんな中、ついにあの時代がやってきました」
あの時代というのは今でもワラビー達の間で触れることもはばかられる話題、カンガルー狩り(Kangaroo Scare)時代である。
紛争後の混乱の中、多くのカンガルーが未だにワラビー自治領に住んでいたのだが、紛争解決後もカンガルーとワラビーの組織としての対立はれっきとして続いており、その政局の不安定さからカンガルー達は反ワラビー的思想を持っているのではないかという恐れがワラビー達を支配し始めた。
そんな中一人の愛国的ワラビー議員が、多くのカンガルーは反ワラビー的思想を持っており、我々の自治を覆そうと常にうかがっているのだ、ということを演説した(カネッサ像前の演説)。ワラビーの英雄であるカネッサ像の前でなされた演説は全国中継され、ワラビー達に深い愛国心とカンガルーに対しての敵対心を植え付けるようになった。
そうしてカンガルー狩りが始まった。それは公職やワラビー自治領内での企業で重役として働いていたカンガルー達の職務追放から始まり、カンガルーの政治参加の禁止、カンガルー議員の罷免、果ては一般の店でもカンガルーの入店を断る場所が増えてきた。
そしてカンガルー達は思想検閲を受けるようになった。つまり反ワラビー思想を持っているかどうかの調査だ。思想に問題があるかどうかはワラビー側のマニュアルに則って行われたが、そこに自由はなかった。要は憲兵にカンガルーが連れ去られたとき、彼らカンガルーが反ワラビー主義者であるとあらゆる方法で断定し、結局は政治犯として独房にとらえるのだが、その公平性をアピールするための見せかけのものに過ぎなかった。
しかしそれは自治領区首都で多く行われており、カンガルー共和国との境であるワラビーのいた街まで当初は浸透していなかった。カンガルーとワラビーの共存は図られなければ生活もままならないような地区であったし、その生活上の要請によって紛争前から両者は一定の距離感はありつつも互いに反発反感は少ないような場所であったからだ。
しかし問題はワラビー達にすら広がっていった。ワラビー達の中で反ワラビー思想をもって、カンガルー側に利益供与しているものがいるのではないかという疑いが中央から広がっていき、そしてそれは一種のパニック状態としてワラビー全体を包んでいった。
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「ここまでは歴史の話です」
と彼は僕に言った
「そしてここからが私と歴史の話になります」
扇風機は時々何かに引っかかったような音を出しながらも首を振り続け、受付嬢はすべてを満足した顔で化粧品をしまっていた。茶色いエアコンはその力のすべてをもって未だに夏に抵抗しようとしていた。ささやかに。
「バドワイザーをもらっていいですか?」
と僕は彼に尋ねる。無言で差し出されたぬるくなったその瓶をいつも鍵につけている栓抜きのストラップで外し(こんなものが役に立つこともあるんだな)、僕は飲み干す。
そうして、ワラビーの話がまた始まる。
13
地方にまでカンガルー狩りの輪が広がっていったとき、それはもはやカンガルー達だけの問題ではありませんでした。一般ワラビー達も常に反ワラビー思想を持っていないことをアピールしなければすぐに「反ワラビーリスト」に名前が載ってしまいます。当時我々はそのリストの事を密かに「死のリスト」と呼んでいました。なぜならそのリストに載って中央に「お呼ばれ」した者は──それがカンガルーであれワラビーであれ──二度と故郷に顔を出すことはなかったからです。
ワラビー同士の間では密告が流行りました。憲兵にあのワラビーは反ワラビー思想を持っているかもしれない、と告げるだけでそのワラビーの社会的生命は──時に生命すらも──失わせることができたからです。そして密告したものは愛国者としてその精神を賛美されたものです。
地元の有力者だったもの、これまで多くのワラビーに慕われていたカンガルー、近所で私に良くしてくれていたワラビーさん。反ワラビーリストに載せられることによって多くのワラビーとカンガルー達が一日でその地位を失いました。
そしてその波は当然私が通っていた教育施設にも及びました。校長がカンガルーの生徒を抱えていることが他の健全なワラビー達を反ワラビー思想に誘導する意思があるのではないかという密告が寄せられ、それに対して中央から憲兵視察隊が派遣されることになりました。そして彼らは憲兵隊の中でもトップクラスのエリート、親衛隊と呼ばれるワラビー達でした。
ワラビー社会においては教育機関の自由は非常に強く、政府でも教育機関の自治的なものに介入することは昔からタブーでした。それはワラビー社会の根本をなす重要な思想であり、今回教育機関に政府からのメスが入ったことは驚きでもあり、そして同時にカンガルー狩り運動も頂点に達そうとしていたことの証左でもありました。
ある朝、私が普段のように授業の用意をしていると、見慣れない軍服を着たワラビーがドアの前に立ち、私とカンガルーの名を呼びました。
「今から校長室で少し聞きたいことがあるのだけれども大丈夫かな?授業の件なら既に他の先生には説明しているから心配しないでくださいね」
そう軍服を着たワラビーは言いました。彼は自身の名前をセオドアと名乗りました。
14
外で風鈴の音が聞こえる待合室で、僕らはだんだんとトーンを落としながら話をつづけた。外はいつまでたっても明るく、夏は永遠にそこにあるように思われた。
セオドアは──と彼は苦々しい顔つきで話した。あれほど気味の悪い男に私はあったことがありません。どこか蛇を思わせるような男でした。どこまでもまとわりつき、絡みつき、気づけば首を真綿で絞めてくる。そんなワラビーです。
言葉は非常に丁寧で、軍服を着た男らしい姿勢も美しく、常に微笑みを浮かべていましたが、その瞳にはまるでなにも映っていないような暗さがありました。誰しも彼といると居心地が悪くなり、自分が何か問題を起こしたのではないかと不安に駆られることになります。
「そしてその不安を彼は見逃すことなく上手に食事するのです」
校長室のベルを鳴らしセオドアに連れられて入ったカンガルーとワラビーの二人は応接間のソファーに案内された。
校長先生は落ち着き毅然とした態度で座っていたが、五名ほどの銃を持った軍服のワラビーに囲まれている光景は寒々しさを感じるものだった。
セオドアは語り始めた。
「私たちはあなた方が反ワラビー主義であると疑っているわけではありません」
とチャーミングな笑顔を張り付けながら彼は言う。
「しかしこの学校に問題、不安を抱えられている方からの声が届きました。私たちの仕事は紛争が終わったのにもかかわらず、いまだにおびえながら暮らさなければいけないワラビーたちを救うことです」
「そこで校長先生、あなたの教育の理念をお聞きしたい」
校長先生は答える。
「我々の教育理念はここに集う学生の個性、そして自主性を遮ることなく伸ばしていくことです」
「であれば不思議ですね、どうしてこの学校では一匹しかいないはずのカンガルーが学年で最優秀な生徒になっているのでしょうか?」
「彼の個性、自主性がその才能を発芽させたのです、そこに議論の余地はありません」
「勿論、教育において個性の伸び方は様々です。しかし現在のこの状況下において、カンガルーが学年一位を取るような学校は……少し疑念を持たれてしまうのも事実でしょう。例えばワラビーよりもカンガルーのほうが優秀な存在であるということをワラビー達に示し、再びカンガルーにワラビー達が服従することをもくろんでいる組織があるとします」
「その場合彼らはどうするでしょう?もちろん成績の改ざんを行ってでも、またカンガルー側に事前に根回しをしてでもテストやその他科目で彼がよい点を取るようにするのではないでしょうか?」
「私たちが不正に手を染めてまでカンガルーを最優秀の生徒として扱うことで反ワラビー的思想の成就を願っているとあなた方は疑っておられるのですか?」
校長先生は語気荒くセオドアに詰め寄る。
「私たちは勿論そんなことを疑ってはおりませんよ、校長先生殿。しかしそういった怯えが近隣のワラビー達に伝播していることは事実です。そしてもう一つ大事なことは、あなた方がたとえどう思っていてもあなた方の招いた結果は反ワラビー思想を……残念ながら助長してしまうものなのですよ」
セオドアは涼しげな顔でそういい放つ。どこか残念そうな顔で、どこかうれしそうな顔で。そして彼の規律正しい身体が一切乱れることなく校長先生から私のほうに向いてくる。
「そこの君は……以前はこの学校で最も優秀な生徒であったと聞きました。ところが不思議なことに君はカンガルーの世話をするようになり、そして最優秀の座をそのカンガルーに奪われることになってしまったと聞いています。何かそこには卑劣な陰謀めいた誘導がなされているのではないかなと、もちろん我々は公平につとめる立場なのでそうは思わないけれども、君の親御さんはそのことを心配していらしましたよ。そこで我々がその不安を払拭してあげるためにも君自身がどういった経緯でカンガルーの彼を庇護しなければいけない立場になったのか話していただこうと今日ここに来ていただいた次第です」
勿論我々のような軍服を着たワラビーの前ではなかなかうまく話せないかもしれないですが、焦らずあなたのタイミングでお話していただけると幸いです。そんなことをセオドアに言われながら私は喉元に冷たいものを当てられているような感覚が走っていた。ここにはすでにセオドアの思うシナリオに沿った正解が存在していて、我々は彼のシナリオを完成させるための役者に過ぎないことに気が付いたからだ。
ここでの私の役割は学校側の意図を知らないまま無垢なワラビーがカンガルーと校長先生以下教職員に操られ、反ワラビー思想を広めるためのかわいそうな道具に仕立てられてしまったことをその純粋な証言から裏付けするというものでしかない。そしてそれは恐ろしいことに私が嘘をつかずまっすぐに自分のこれまでのカンガルーとの関係を話すだけで成立してしまう。過剰な脚色も、激高もいらない。嘘をつかず誠実である事によってこのシナリオは正しく進んでいくのだ。
セオドアの目を見る。澄んだ青色をしていてそこには何も見ることはできない。
「あなたの誠実で純粋な意見を聴きたいのです、もちろんそれが反体制的に聞こえることがあっても私たちはあなたの事を守りますから大丈夫ですよ。あなたはあなたが感じたことを述べるだけでよいのです」
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そうして私は場の空気に押されるように話し出しました。とワラビーは言う。カンガルーとの出会い、クラスで険悪な空気になっていたところを自分が諫めた話、その後親しくなり良く行動するようになったこと、云々。
私の一語一語にセオドアは感極まったように頷いていました。そうして彼は私が話し終わった後涙まで流していたのです。
「これが、このことが悲劇でなければなんでしょう!」
とセオドアは叫んだ。
「学校で最も優秀で知的であったワラビーが、その無垢さに付け込まれ、大人たちの薄暗い反ワラビー思想を成就するための道具にされていたなんて!」
そしてセオドアは私にこう尋ねる。
「あなたが最優秀生徒ではなくなった時、あなたは悔しさを覚えましたか?」
嘘を吐くこともできず、私は正直にはいと答える。
「皆さん、これが現実です。一匹の優秀なワラビーの生徒に挫折感を味合わせ、暗い影を落とした今回のこの問題。これが不正な操作によって彼が貶められていた可能性を考えると私は一ワラビーとして悲しみを禁じえません!……取り乱して申し訳ございません。仕事はしっかりさせていただきたいと思います」
「私たちは……」
と校長はさえぎって言おうとする。
セオドアはそれにこう答える。
「容疑が晴れるまではあなたの発言は許可できません」
そしてそのままセオドアはカンガルーに向くとこう話しだした。
「君が何か不正をして得ようとしたと私は思っていないんだ。しかしそういったただのカンガルーであるだけの君をカンガルーであることから利用しようとするワラビーも少なくない。君の将来を思ってたとえ今回の件がどんなことになろうとも君の身を保証したく私は思うよ」
カンガルーの彼は少し緊張した顔で、しかし悲壮感はなくその言葉にうなずいていた。
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今でもありありと思い出せるのです。私が憲兵に連れられてカンガルーと校長先生を残して校長室から出ようとしたとき、彼が私に今までありがとう、また会おう!と叫んだことを。そしておびえた私は何も返すことができずその場を去ったことを。
その後、学校側から成績を改ざんしていたという証拠が次々に憲兵隊によって発見され、校長以下多くの教員が逮捕起訴されました。全員政治犯として専門の収容所に連れていかれ、校長先生や多くの教員はその収容の最中に「予測できない」事故によって亡くなったらしいという話が私たちの街にも伝わってきました。
そしてカンガルーは重要参考人として拘束されていた際、不慮の事故で亡くなりました。この連絡は他の教職員のような噂話として聞いたのではなく、直接セオドアから伝えられました。彼はこんな悲しい出来事はあってはならない、彼の名誉を回復するためにももっと仕事に邁進する、と悲しみに満ちた声で報告してきました。
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その後カンガルーに対する苛烈な態度が国際的に非難されるようになると、国内の政治家、マスコミ、軍部の中でもこの問題に対して批判がなされるようになり、自治権を得たばかりのワラビー達が国際政治上安定するために「クリーンな」政治を行うために当時の親衛隊は解体され、その職務から追放されることになった。また政治思想犯専用の収容所や裁判所もその痕跡すら残さないように破壊され、働いていたワラビー達も職を追われた。
こうしてカンガルー狩りは幕を閉じ、カンガルー政府もワラビー政府もお互いの過去に合ったことはまるっきり忘れているかのように穏やかな外交を続けることとなった。
当時を知るワラビーもカンガルーも少なくなり、今では両者に大きな紛争が起きる気配もない。
「そして私もそんなことはまるでなかったかのようにワラビー的生活をするようになりました」
その後ワラビーが立ち上げた会社は順調に利益を上げ、大企業ではないにしろ、普通のワラビー達に比べれば圧倒的に豊かな生活が送れるようになった。そして彼は仕事は他のものに預け本来のワラビーの姿を満喫できる生活を送るようになっていた。
そうして、ここに迷い込んだのです。ここはいったい何なのでしょう?我々がなしえたことはなんだったのでしょう?
と彼は僕にそう問いかける。
「悪は常に集団の日常から生み出されます。我々がある集団に所属しているとき、私たちは一種の麻酔にかかったような様態になります。一人ではやらないこと、一人ではしたくもないこと、信じられないような理不尽なこと。それらは集団の中で日常として過ごしているうちに意味を失い、ただの作業をするかのように進められるようになります。誰一人悪いことだとは思いもよらないまま殺されたり殺したりすることが起きてしまうのです」
そして私はある意味において、校長室でカンガルーを殺すためのシステムになっていたのです。それは直接的でもなければ不道徳な行為でもありませんでした。しかしシステムが何か悪を行うときにおいて私というピースは、私の発言は、非常に有効なものとして働いたのです。
私はそういった状況に陥った時いったいどうするのが正しいのでしょうか?あなたはいったいどうするのがよかったのでしょうか?
彼の問いかけに僕が答えようとしたとき、診察室からワラビーの名前を告げるアナウンスが入る。それに呼応するようにワラビーは席を立ち、一本余ったバドワイザーを僕に預けて歩き出す。ワラビーの表情はすっきりしていてさっきの時とは打って違い柔らかな表情になっている。
そうして彼が診察室に入った後僕は気が付く。
僕は一人ぼっちだ。これからも、この先も。