私のお父さんはカッコいい!裸の宇宙旅行から涙こらえる飲み歩きに行き着くまで

先月末に久しぶりに父親と二人で食事をした。
LA出張のついでに前泊してサンタモニカまで足を運んでくれた父。約一年ぶりに会って食事をし、閑散とした平日の観光地を飲み歩いた。

自慢します。私のお父さんはめちゃめちゃカッコいい。
何でもできて、いろんなことを知っていて、想像できないくらい心が寛くて、多くを語らないけどユーモアがあって、人に信頼されていて、カッコつけてなくて、穏やかで、いつも正しくて、おまけに美味しいご飯の食べ方を知り尽くしている。

小さい頃、一緒にお風呂に入って宇宙の話をするのが休日の楽しみだった。
「もし地球がこの水滴の大きさだとしたら太陽はどれくらい?銀河系は?じゃあ宇宙全部は?」「星はどれくらい生きるの?」「ブラックホールに入ったらどうなっちゃうの?」「光の速さで走ったらどうなるの?」
お父さんは、お母さんのそれよりも太くて力強い指でゴシゴシと私の頭を洗いながらあらゆる質問に答えてくれた。もちろんお父さんにも「宇宙の外には何があるの?」なんて質問の答えはわからないから「お父さんにもわからないことがあるんだ、それほど宇宙は謎に満ちてるんだ」ということに私は驚いた。
大きな大きな宇宙の未知の中では、この裸ん坊の私とお父さんはこんなにも小さな小さな存在なんだ。なのに…いやだからなのかな、こんなにもお父さんが心強いのは。シャンプーが目に入らないようにギュッと目をつぶりながら、私は恐ろしくなるほど壮大な宇宙のスケールに思いを巡らせていた。
もっと話していたいなというところで「ハイ終わり」と、幸福なお風呂タイムが終わってしまうのを、いつも残念に思っていたのを覚えている。お父さん、お母さんより洗うのはやいんだよなあ。

スポーツを教えてくれたのもお父さんだった。
走るフォーム、バットの握り方、ボールの蹴り方、スキーの滑り方……私がソフトボールチームのピッチャーになったときには、お父さんも練習に来てやったことのないソフトボールのピッチングを学んで、家で練習に付き合ってくれた。
お父さんも小さい頃からいろんなスポーツをやってきて、東大ではバリバリのラグビー選手だった。だからいつも「もし息子がいたらお父さんもっと嬉しかったのかな」なんて思っていた。それでも私が高校のサッカー部を引退するまで、大事な試合のときにはいつもお父さんとお母さんがいた。(意識しすぎて、ドフリーの決定的なシュートを二人がいるゴール脇にぶっ飛ばしたことを思い出してはいつも顔を覆いたくなる)

いろんな景色を見せてくれたのもお父さんだった。
アメリカに住んでいた頃は本当によく家族で西へ東へ車を走らせていたように思う。メジャーリーグやNBAやUSオープンなど一流のスポーツも、ブロードウェイやグランドキャニオンやラスベガスやナイアガラの滝まで、たかが10歳のときまでに見せてもらったあらゆる景色や衝撃が、未だに私の人生の土台になっている。


大きくなって会話がぐんと減った。
いつから娘は父とお風呂に入らなくなるんだろう、そういう決定的なタイミングがあったんだろうか。いつか裸で宇宙の話をしたことなんてすっかり忘れてしまうほど、十代の私は友達や恋やあれやこれやで忙しかった。

その時期の私は、父のことを専ら父の本棚から知っていった。(この辺から「お父さん」ではなく「父」になっていくのが不思議だ)
父の本棚を夜な夜な物色し、父の読んだであろういろいろな種類の本の軌跡を辿った。気に入ったものはそのまま自分の本棚にしまった(ごめん)。私が読みたいと思っていた本を父の本棚に見つけると嬉しくなった。

お風呂やキャッチボールの習慣がなくなってから、私のことは全部母づてに父に伝わっていたのだろうけど、父は私に対してほとんど何も言ってこなかった。私のことあんまり興味ないのかなと思ったくらい。
うちはもともと「〇〇しなさい」とか口うるさく言うタイプの親ではないのだけど、稀に父から「ちょっと座りなさい」と言われるときは「いよいよマジだな・・・」というとき。父は「怒る」タイプではなく「静かに諭す」タイプだったので余計に怖かった。
でも口を出すのは「約束を破ったとき」と「母を傷つけたとき」だけだった。私が学校をサボって遊んでばかりいることに関しては、心配する母の隣でまぁまぁという感じにほったらかしてくれてたように思う。でも約束を破って信頼を損なったり、母親を泣かせたりすることに関しては、私は絶対に放って置かれなかった。
いつも「パパは普段近くで見てるわけじゃなし、自分の人生だから好きに生きていいけど、無責任な行動でママを泣かせるな」というスタンスだった気がする。そしてそんな父はいつも筋が通っていて、心底カッコよかった。

いつか飲みの席で、母方の祖母が「今ちゃん(父)が娘と結婚してくれて本当によかったわぁ」みたいなことを涙ながらに言ったことがあった。
その時に父は「いやいやこっちの台詞です。僕は出会ったその日に『結婚しよう』って言ったんですよ」と言った。
横で聞いていた(聞いてしまった?)私は「えええぇぇぇ〜!そうなの!?」と内心びっくらこいたけど、目の前の両親がどこまでもどこまでも素敵な人たちに写って、そんな人たちの人生の一部になれたことが嬉しくって、ビールジョッキを流し込むふりをしながら潤んだ瞳を必死でごまかした。
父と母は大学のときに出会った。私ももう大学生だった。


そして時が経って、サンタモニカ。
私は再び、お酒を飲むふりをして潤んだ瞳をごまかしていた。

一年ぶりに父親の顔を見るだけで泣きそうになるなんて、昔の私なら思ってもみなかっただろう。でも会った瞬間、父の目もかすかに潤んでいたことを私は見逃さなかった。

え、一年でそんな大げさな?と我ながら思うが、そういうものなのだから仕方ない。
私は特にここ数年家族大好き人間でいつも大切な家族の存在を想って頑張っていたし、父は父で手間のかかった末っ子の私がそれなりにいい顔をして一人アメリカで暮らしてるのを見てきっと安心したのだろう。そういうことのすべては顔だけで充分に語られる気がする。

いろんな話をした。
父からは家族の近況、仕事の話、私からは私の近況、将来、恋愛についてまで。小さい頃にこんなことあんなことしてくれてありがとう、も少しだけ言えた。父も、私も、とってもいい顔をしていたと思う。
宇宙の話はもうしなかったし、もう裸ではなく二人ともジャケットを着てたけれど、それでもあのお風呂の中で感じていた心強さは今も変わらずだった。あぁ父だ、と思った。私が憧れ続けてきたのはやっぱりお父さんだったんだ。

私はいつからか父みたいな人と結婚したいと思っていたし、母が父に惚れた理由もバカみたいにわかる。父が母に惚れた理由はもっとバカみたいにわかる。言葉が悪いね。

父は、「愛する人」なのだ。
母を愛し、家族を愛し、仕事を愛し、スポーツを愛し、未知を愛し、学びを愛し、旅を愛し、食を愛し、、、たかが二十数年の観察でも私は、父が真っ直ぐに愛するいろいろなものを知っている。そのことが嬉しい。きっと私の知らないたくさんのものにも愛を注いできたんだろう。
お風呂の中で一緒に宇宙を旅していたときも、キャッチボールをしていたときも、アメリカ中を車で走らせていたときも、会話が少なくなってからも、そしてこうしてお酒を飲み交わす今も、父は父だけのやり方で愛を注ぎ続けてくれていたんだな。
そしてそのことを感謝しながら、私も「愛する人」でありたいと願う。誰かを、何かを、すべてを。

別れた後、日本から紙袋いっぱいのお土産を両手に抱えながら家の前でしばらく立っていると、気持ち良いくらい自然に涙がすーっと流れた。家族がくれる幸せや心細さや心強さや気合いや、取り戻せない時の切なさや、おいしかったオイスターや、、、あぁ私もうちょっとちゃんとしたもの食べないとな、、

それにしてもやっぱり、もっと話していたいなってところで「よしじゃあ帰ろうか」って幸福なお酒タイムもあっという間に終わってしまったなぁ。私はファザコンなのかなあ、、、



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