この街には名人がいる
サナ…… サナ……
頭のてっぺんのちょっと左から声が聞こえる。
「おいでよ、もう朝だよ」
誰だろう?視界がぼやけてよく見えない。だけど3歩先ぐらいに人の気配を感じる。楽しげな、まるで何か悪戯をしに行くようなそんな雰囲気だ。記憶にはない声だったが私を包み込むような気配で思わず頭が反応してしまった。
自然と身体が浮き上がり、差しのべられた手を取ろうとする。その瞬間、手を引かれた。
え?と思って前を向いてみると誰かがケラケラと笑っている。どうやらこれは夢ではないようだ。こいつ、やりやがったな。こっちを見て笑いながら男は逃げていく。
「おいこら、待ってよ」
私も駆けていく。男は階段を上って屋根裏の窓から屋根に出て行ってしまった。
「ねえ、駄目だよ。危ないよ!」私は叫ぶ。
彼はこっちを向いて無言で笑いながら手を振っている。しょうがないなぁ、私もゆっくりと外に出る。
屋根から見る景色は新鮮だった。朝方の、まるでこの街を覆う薄い膜がシャカ、シャカ、と揺れて溶けていくような、人間の生活の息づかいがかすかに聞こえはじめるような、そんな空気を胸いっぱいに吸い込んでみる。いろいろな色や形をした屋根が並んでいる。赤みがかった茶色、少し色褪せて暗みがかかった平らなねずみ色、少し遠くには集会所らしき屋根があって、隣は少し開けていて丘の形をしたすべり台が見える。あれは白山公園かな。春には綺麗な桜を咲かせていた木の葉っぱがまだ少し冷たい風に乗ってさわさわと揺れている。こんなに豊かな景色があるものなんだな。
横で何かが動くのを感じた。彼がふわっと飛び降りていく。私もあとに続く。彼はそのまま走り出す。私も駆けていく。彼を追いかけて、夢中で駆けていく。
不意に青い香りが鼻腔にとび込んできた。
あれ、意外と疲れた。足がもう動かない。あんまり走った気はしないのだけど。顔を上げるとあたりは背丈の高い緑とそこかしこから差し込む光の白で満たされていた。うわっと尻もちをつく。大地はひんやりとして穏やかだった。草に滴る水滴が一滴、おでこに当たる。まるで彼らの世界に私をいざなうように。白の向こうからすがすがしい朝風が初夏の緑の匂いをぶわっと運んでくる。何か底知れぬ、得体の知れぬ、どこに行くのかもどこに向かっているかも知れぬ、しかし何億年もまえから引き継がれてきた若くて湧きあがるようなパワーを明らかに確信する緑だ。その緑が我の身体を充たしていく。
目から鼻から耳から全身の肌から、満ちることなく無限に充ちていく。
真ん前で走っていたはずの彼の影はいつの間にかなくなっていて、はるか遠くで草の葉先に立っていた。これらに背中を向けて、地平線を見ている。
草を掻き分けて近づいていくと、ぱっと視界が開けて、湖の青が姿を現した。水面はまるで何かを語りかけてくるようで、しかし不気味なほど静かだった。生きものという生きものがまるでここには存在していないかのように、ただ我はここに存在している。我の肉体は我に従い、質量を持って存在している。我の顔が透明な水面に映り込む。その顔は皓々と光を堪えており、気持ちが良かった。
どれほどそうしていただろう。地鳴りが聞こえる気がして我に返った。だんだんと近付いてくる。ひとつではなくて、たくさんの生きものがこの地を揺らしているようだ。馬なのか、バッファローなのか、はたまた恐竜なのか……
さなえ! さなえ!
意識の遠くから同期のわかなの声が聞こえてきた。あ、私寝ちゃっていたのか。
「あんたまたこんなとこで寝てたの」
身体を起き上がらせてみると節々が悲鳴を上げた。残業150時間オーバーがもう5ヶ月続いている。昨日もクライアントに怒られて提案がやり直しになって終電までに終わらず、7階のオフィスでずっと仕事をしていた。スリープ状態になっているパソコンを点けると書きかけのプレゼン資料が映し出される。
苦しい。
苦しいが、未来はそんなに暗くもない気がした。何故かは分からない。どんな未来が待っているかも皆目見当がつかない。ただ、空っぽになりかけていた心にほんの少し重力を感じて、驚いた。ブラインドを上げた窓の外から差す光の隙間から、懐かしい草の匂いが紛れ込んで身体の奥をつんと刺してくるような気がした。
この街には名人がいる、とまことしやかにささやかれている。名前は誰も知らないし、普段の話題にも上がらない。なんの名人なのかも分からない。ただ、「名人」とだけ呼ばれている。気まぐれで誰かのもとへ行くらしい。今日もきっと、ケラケラと笑いながら。