「国広と足利」余話5
国広は足利学校山門前にいた!
桃山時代の名刀工、堀川国広は足利のどこに居住し、山姥切国広や布袋国広を鍛えていたのでしょうか。謎を解く一つの資料が史跡足利学校内遺蹟図書館(足利市昌平町)などに所蔵されています。
書籍名は「足利学校誌」(復刻版)=昭和53(1978)年、足利学校遺蹟図書館後援会発行。同誌95㌻に「国廣 足利学校山門前に住シモノ成ルベシ」などと記述されています。山門について、同学校学芸員の大澤伸啓さん(64)は「入徳門を指すのではないか」としています。
同誌などによると、入徳門東側の区域には当時、役人屋敷(現在の同学校事務所)、同学校の創建者の一人とされる平安時代の公卿、小野篁に追従した十二軒が家抱として住んでいました。古地図には「家抱百姓六軒」と記された区域が2カ所あります。
時代が下り幕末にはその家抱の区域に、足利の刀工・源景国が居住し鍛刀した記録が残っています。景国は水心子正秀門下で、埼玉県川越市から足利に移り住み刀鍛冶となりました。
国広は日向(宮崎県)生まれで、戦国時代末期、足利を訪れたと伝えられます。都で人を殺めて足利学校に身を寄せたなどの諸説がありますが、来訪の目的は不明。
ただ、脇差「布袋国広」(足利市民文化財団蔵)の銘に「天正十八年八月日 於野州足利学校打之」とあることから、足利滞在を裏付けています。足利市が取得予定の山姥切国広、本作長義(徳川美術館蔵)にも同じ年の銘が切られており、足利との深い関連が指摘されています。
一連の刀剣ブームを受け、国広と足利関係がクローズアップされる中で、国広が一体、どこに住み、刀を鍛えたか、が一つの謎として話題を呼んでいます。同学校内学校門北のイチョウの木の付近で鍛えたなどとも噂されましたが、裏付け資料はありませんでした。
足利学校誌は幕末、同市五十部町にいた丹南藩代官、岡田訥平がまとめました。草稿は、曽祖父・秀行が明和年間(1764~72)に執筆した「湯治土宜」とされています。訥平の父・東塢は、田原藩士で文人画家の渡辺崋山と交流し、崋山の描いた肖像画を足利市民文化財団が所蔵しています。