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佐野乾山発掘記①

 掲載に当たり
 佐野乾山との出会いは40年近く前になります。妻と結婚前後でした。たまたま佐野で開かれていた佐野乾山展に足を向け、作品を目にしたのが最初でした。会場で勤務先の役員とばったり会い、「若いのに乾山に興味とは。お茶を楽しむのか」と驚かれたのを思い出します。
 その後、異動先の上司が佐野乾山の作品を所有し、茶飲み話にとくとくと佐野乾山の素晴らしさを語っていました。思い起こすと、その作品群は昭和37(1962)年に発生した真贋論争事件に連なるものらしい。
 11年前、新聞記者として第3の人生を踏み出しました。管轄は故郷の足利と、隣市の佐野の両市。寂れる一方の地方都市の姿に記者としての役割を考え、埋もれた地域資源の発掘を目指すことにしました。その一つが佐野乾山でした。
 日々の取材を積み重ね、研究者の間で唯一、本物とみられている乾山の自筆伝書、陶磁製方などに出会うことができました。 
 あの真贋論争の影響で佐野乾山は現在も美術界のタブーらしく、その論争以前に郷土史家の篠崎源蔵の手で発見されていた陶磁製方などの貴重な作品が展示されたり、話題になることもないようです。
 後世の研究の一助になればとの思いから、一連の取材経過を小説に認めてみました。

  第1話、
 切り揃えられた幹、枝が山積みとなり、地元の人々数人が作業場で黙々と楮の皮むき作業に取り組んでいる。湯気の立つ楮の先端に親指で切れ目を入れ、手慣れた手つきで素早く樹皮を剥ぐ。剝がされた黄色の樹皮が生々しい。
 手前に積み重なる樹皮を入れ、姉さんかぶりに作業着姿の老女の手元をアップにする。江上はカメラを構え、左右前後に動きながら、シャッターを押し続けた。
 佐野市北西部の中山間地、飛駒地区は江戸時代から和紙の里として知られる。洋紙に押され、一時途絶えたが、約20年前、地元住民による飛駒和紙保存会が結成され、地元の小中学校向けの卒業証書作りなどに精を出している。
「わざわざ、こんな山ん中まで取材に来てもらってご苦労さんで。どうです、新聞に載せてもらえますか」
 地域の世話役、塚崎正美さんは両目を瞬き、懇願するように江上の顔を覗き込んだ。
「こちらこそ取材協力ありがとうございました。皆さんのお陰でいい写真が撮れました。もちろん、今日、宇都宮支社に出稿するつもりです」
 地域の誇る伝統工芸品、しかも寒中、地元民による皮剥き作業。新年早々、話題も乏しい時期なので、風物詩として紙面の片隅を飾るには格好のネタだ。
「そうですか、それはありがたい。新聞掲載されれば会員の励みにもなるので。それで厚かましいお願いなんですが、記事が掲載されたら連絡を頂けますか」
「ご心配なさらずに。掲載後、支社から掲載紙を塚崎さん宛にお送りしますから。2、3日後になりますけど」
 江上は車に乗り込み、山間の道を自宅に向けて走らせた。東西を低い山並みが続き、道路沿いには冬枯れの小川が流れ、田や畑の間に民家、郵便局、商店、製材所などが点在する。長閑な景色に心が和む。
 朝一のアポに億劫な気持ちも頭をもたげたが、半面、この日の出稿予定が整い、気が楽だ。20行程度の記事にまとめ、撮影済みの写真から図柄のいい一枚を選び、写真説明を付けて支社に送信すれば今日の仕事は終了だ。昼までには支社に出稿を済ませ、午後はフリーとなる。昼寝をしてもいいし、馴染みの喫茶店で暇つぶしをしてもいい。
 佐野市内にある県内最古の老舗酒造では新酒の仕込みが始まり、月末には文化財放火デーに合わせ、国宝を所蔵する足利学校、鑁阿寺では恒例の防災訓練もある。2月に入れば管内自治体の新年度予算案の発表が相次ぐ。どの話題も毎年恒例で話題性も乏しくベタ記事程度だろうが、出勤報告代わりの「出社記事」にはなる。
 事件事故は県庁所在地にある支社駐在の若手の担当記者に任せてあり、原則、手を煩わすことはない。仮に大事件、大事故が発生すれば東京本社から社会部、写真部が駆けつけ、取材を主導する。通信部の記者は周辺取材を手伝う程度だ。そもそも通信部が所管する人口10万人前後の地方都市で凶悪事件や大災害、大惨事はめったに発生しない。
 毎日、通常一ページの栃木版を、支社の県警、県庁、遊軍記者ら計六人と、県内三通信部の三人が受け持つ。当然、支社勤務の記者は上級官庁を受け持ち、取材対象も広いことから主導的立場となり、通信部の出稿記事がトップ記事をはることはめったにない。
 2年前、江上は日本産政新聞の記者になった。当時、55歳。28年余、地方紙の記者を務めた実績を買われ、派遣社員として中途採用された。勤務地は自宅のある足利通信部で、取材対象エリアは足利市と隣接する佐野市だった。
 入社に当たり、支社長からは「できる限り長く勤務して頂けたら」と打診された。度重なるリストラで地方回りの記者が手薄となったらしい。背景に新聞離れに伴う経営不振がある。地方都市では記者経験者が絶対的に少なく、土地勘があり即戦力となる上に、低コストの派遣社員で雇える対象者はそうはいない。ハローワークに求人申し込みしても無駄足に終わるだろう。
 一方、江上にとっては渡りに船だった。地方紙を記者で早期退職後、栃木市の依頼による江戸時代の浮世絵師・喜多川歌麿の足跡調査も終え、雇用保険を受給しながら、第三の人生を模索していたからだ。記者復帰に多少の不安と躊躇いがあったが、年金受給できるまでの繋ぎとして安定収入を確保できるのは何よりの魅力だった。
 自宅に着いて間もなく、携帯が鳴った。待ち受け画面に山口とある。2歳年下の会社の同僚で、彼は県北の大田原通信部を担当している。プロパー社員だが、同じ立場の誼もあり、事あるごとに連絡を取り合う。
「どう、今日は何か出稿できそう?」
「今、通信部に戻ってきたところ。飛駒和紙の話題で、楮の皮むき作業が始まったって連絡をもらったから、取材に行ってきたんだ。そっちは」
「参ったよ、こっちは昨日雪が降って。でも、地元の動物園が絶滅危惧種のライチョウを受け入れたっていうから寒い中、行ってきたんだ」
「そりゃ、ご苦労さん。ライチョウは環境省の増殖作戦の一環だろう、こっちより数段、ニュース性は高いな。他社も取材に来てただろうし、今日組で掲載されるんじゃない?」
「まあ、そうかもしんないけど。所詮は動物の話だから」
 山口は自嘲気味に応じた。
「ところで、明日、定例の部会だろう。特別な打ち合わせ事項はあるのかな、何か聞いてる?」
 宇都宮市支社では毎月1回、支社長以下、全員が集まり、本社からの連絡事項の周知、当面の紙面対策などを話し合う。
「担当デスクによると、今年は戦後70周年に当たるから、通年で戦争関連の話題を積極的に取り上げ、夏の終戦記念日以降、特別企画も組むらしいんだ」
「特別企画か、どんな感じの」
「デスクの意向だと、戦後に発生した栃木県内の大きな事件事故、災害、イベントなんかを取り上げたいみたいだな。江上さんのいる足利だと例えば、戦後間もなくのカスリーン台風の大惨事、足利連続幼女誘拐殺害事件も世間を騒がせたじゃない」
「節目の企画だとは思うけど……」
「気乗りしない?」
「そんなことないよ。仕事だから」
 特別企画となると、入念な下調べと綿密な取材が不可欠となる。時代を遡るほど風化し、取材対象者の声を集めるのは容易ではない。しかも戦後70年は大きな節目で、他社も総力戦で力を入れてくる。手を抜くわけにはいかない。その上、日々の紙面制作のための取材もある。
 正直、江上は気が重い。一度、記者としては第一線を引いた身だ。正社員と比べ低賃金の派遣社員で、半年ごとの契約と身分保障もない。手間のかかる仕事にはどうにも意欲が湧かなかった。
 山口との電話を切り、江上はパソコンに向かった。モニターの片隅の時計が11時過ぎを示している。出社原稿をさっさと片づけてしまおう。20行程度の原稿だ。写真選びを含めても2、30分で済む。
 昼食を済ませ、午後は春の解禁に備えてフライ作りに熱中するつもりだ。自作のドライフライが渓流を流れ、岩魚、山女魚が食いつく姿が思い浮かぶ。自己記録は3年前、渡良瀬川本流で仕留めた37センチの山女魚だ。今年こそ40センチクラスを釣りあげたい。
 取材ノートを開き、江上は「寒さが本格化する中、佐野市の伝統工芸品、飛駒和紙の原材料となるコウゾの皮剥き作業が……」とキーボードを叩き始めた。
 次いで飛駒和紙の歴史に触れ、作業風景を描写し、会長談話を入れる。長年の記者活動で身についた構成通りに、記事が仕上がっていく。
 末尾に写真説明を打ち込んでいると、脇のファックスの着信音が鳴った。印字されたファックス用紙が送り出されている。「栃木の戦後70年企画案について」のタイトルが目に入った。宇都宮支社からの業務連絡で、山口の話していた部会の資料らしい。
 慌ててファックス用紙に目を通し、江上は顔を歪めた。参考例にこう記述されていた。
 ーー美術関係 佐野乾山真贋論争事件
                          第2話に続く。

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