小説「遊のガサガサ冒険記」その6
その6、
渡良瀬川からどれほど離れたろうか。いくつもの山を越え、山の中腹に朱塗りの鳥居や社などの建物が見えた。神池が陽光に白く光っている。
(あれが阿倶羅様のいる社?)
遊の疑問に答えるように、彼を乗せた磨墨は大きく両翼を開き、その鳥居の前に静かに降りた。鳥居の神額には自制神社とある。
「遊様ですね。大神使がお待ちかねです。どうぞ中に」
門番らしき男が鳥居の傍で待っていた。鳥居の奥に神池を挟んで拝殿、左側に神楽殿などが並んでいる。その男の案内で、遊は神池に掛かる小さな神橋を渡り、右側の社務所に入った。社務所一階の大広間は畳敷きで、中央のテーブルの周りには神使らしい男女十数人が控えている。
上座にいた一人の神使が立ち上がり、遊を出迎えた。
「私が大神使の阿玖羅命です。遊、待っておりました」
と、両手で遊の両肩に手を置いた。他のメンバーも一斉に立ち上がり、歓迎の拍手を響かせた。
大天使の髪は中央で左右に分かれ、両耳で房のように束ねてある。両顎が張り、太い眉の奥に澄み切った瞳が輝いている。白装束に緑色のネックレスを身に着けている。他のメンバーも同様の格好だった。
「阿玖羅命様、お会いできて大変、光栄です。ですが、突然、降ってわいたような大役を仰せつかり、正直、戸惑っています」
遊は暗記していた挨拶を声を震わせながら、どうにか口にした。
「心配せずともよい。遊は救世主の運命を背負って誕生した選ばれた人間なのです。何も恐れることはありません」
「僕の、いや私は何をするためにここに来たのでしょうか」
「申し訳ないが、また緊急事態が発生し、緊急会議を開いています。ここにおるのは私の部下の神使らです。後で詳しいことは説明しますが……。そうだ、丁度よい、早速、この会議を傍聴し、現況の理解に努めてください」
遊はテーブルの末席に案内された。神使らの視線を浴び、緊張で心臓は高鳴る。上座の真正面に阿玖羅命が座り、落ち着くよう遊に目配せした。神使らは上座に顔を向け、会議が再開された。
大天使は手元のノートで議事を確認すると、眉を寄せて切り出した。
「それで、そのブルーギルとかいう外来魚を野に放つというのですか。一体、今度は何のためにというのです。忍男命、報告して下さい」
阿玖羅命の質問に、忍男命と呼ばれる若い男が説明を始めた。
「これまでの調査によると、淡水真珠の人工増殖に使うようです。何でも真珠養殖の母貝として使うイチョウガイの幼生は魚のヒレなどに寄生する習性があり、その対象魚としてブルーギルが最適であるとのことです。四国や九州の湖に養殖したブルーギルを放流する計画と聞いております」
「欲の悪魔の仕業でしょう、また悪さをして。海の真珠養殖だけでは満足できないとは。それに、戦前に移入した雷魚で懲りていないのですか、在来魚が食べ尽くされているではありませんか。ブルーギルは肉食ではないのですか」
「それが大変な悪食でして、小魚に水生昆虫、貝に甲殻類、手当たり次第に食い尽くすようです。しかも雄親が卵や稚魚を守る習性を持っており、一度、放流されると爆発的に増える懸念も指摘されております。厄介な外来魚に間違いありません。こんな危険極まりない魚が放流されては、この先、日本の在来魚、内水面漁業も大変な影響を受けましょう。池、湖沼など閉鎖性水域は特に深刻な被害が懸念されます」
「何ということです。そんな危険が分かっていながら、放流するというのですか。まったくもって、愚かな所業です。欲のウイルスに相当、侵されているのでしょう。自制が利かなくなっています。ワクチンは効いていないのですか」
阿玖羅命は口元を歪め、担当の神使の発言を求めた。白髪交じりの初老の男がおずおずと立ち上がった。
「八尋命でございます。敵は新型のウイルスをまき散らしているようです。当方も経鼻ワクチンを、電車やバス、オフィス、レジャー施設などの密閉空間で噴霧しているのですが、ウイルスの猛威は収まっていないのが現状でございます。まさにウイルス開発との鼬ごっこで、攻める側が一歩先を進んでいるのが常でして」
「新型ワクチンの見通しはまだたっていないのですか。予算とスタッフは十分、割いているつもりですが」
「ご配慮頂き、感謝申し上げます。研究開発スタッフが日夜、取り組んではおりますが、もはや既存の原材料、開発手法では残念ながら、ウイルスの後塵を拝する懸念がございます。ついては大神使様、お願いでございます。何かお知恵等を授けていただけないでしょうか」
その八尋命という神使は両手を合わせ、阿玖羅命に懇願した。
「我々は欲の誘惑に打ち勝てないのでしょうか。人間は本来、理性的であるはずです。本能やひと時の感情に左右されず、冷静に物事を見極め、行動に移せてしかるべきなのですが。嘆かわしいことです」
「自浄能力に期待を寄せたいお気持ちは理解できます。ですが、大神使様、一刻の猶予もないのです。欲望の嵐が吹き荒れ、森は無秩序に破壊され、海、河川、大気まで汚染されて、そこに住む多くの生き物は住処を追われ、青息吐息の状態です。既に人間にも多大な影響が噴出しており、この日本では多くの人々が水俣病、第二水俣病、四日市ぜんそく、イタイイタイ病などの公害に苦しんでいるではないですか」
阿玖羅命は渋い表情のまま大きく頷いた。
「なんて人間は愚かなのでしょうか。欲望の悪魔におだてられ、いずれはそのツケがブーメランのように跳ね返り、行く行くは人類そのものの生存さえ脅かすであろうに。万物の霊長と言われながら、想像もできないのでしょうか。しかし、愚痴を言っている場合ではありません。こうなっては自制の神、恵夢俱良命におすがりするしかないようです」
「自制の神に」
一同がざわついた。
「そうです、天上におられる自制の神の元に参るのです。禁断の秘薬を授かるために」
一転、座は静まり返った。
「で、その使者としてあの少年が」
一人の神使の漏れた言葉に、すべての神使の視線が遊に注がれる。
「自制の神の元には、選ばれた人間自らが行かなければなりません。その大役を担うのが来席している遊なのです」
(神様の元に、この僕が。そんな大それたことを)
宇宙飛行士になって月や火星に飛び出すより非現実的で、想像すらつかない。遊の両頬をはちきれんばかりに膨らんだ。
その7、に続く。
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