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小説「或る日の北斎」その2

「ところで、お前さんはそんなに腕を磨いて、まだ本気で絵師を志すつもりか」
 北斎はどうにか話の矛先を変えた。
「とんでもございません。ほんの手慰みで、気に入った水茶屋の女に小遣いやって、その姿なんぞを描いてるだけでして。何度やっても色っぽい女に描けなくて。先生、うまくなるコツはありませんか」
「そりゃ、簡単だ。弟子には再三、教えたはずだが」
「えっ、聞いた覚えはありませんが」
「そりゃ、口じゃ言わねえ。目で見て覚えなかったのかい」
「申し訳ありません……。ぜひ、後生ですから教えて頂けませんか。その上手くなる秘訣とやらを」
「そうかい、元弟子ってことで特別に教えてやろうじゃねえか。二度と言わねえから、よく頭に入れておきな。秘訣ってのはなあ、寸暇を惜しんでせっせと筆を走らせることだ」
「そりゃ、そうでございましょうが」
 丑松が顔を顰め、当惑の様子を見せたのを潮に、北斎は話を打ち切り、立ち去ることにした。
「それしかねえだろう。俺は70年も画紙とにらめっこしてるがな」
 北斎は捨て台詞のように呟いて、2人に背を向けた。
 すると、凄みの利いた声が北斎の足を止めさせた。
「ちょっと、待ちねえ。あんたが北斎かい」
 振り向くと、丑松の脇にいた若い男が獲物に挑みかかるような獰猛な目つきで睨んでいる。北斎は咄嗟に記憶を辿ったが、こんな風体の悪い男に面識はない。
「話聞いてりゃ分かるだろう。お前こそ、どこのどいつだ」
「こりゃ名乗らず、悪かったな。留五郎だ」
「それで留五郎、俺に何の用だ」
 留五郎は腕組みをほどくと、北斎に近寄り、
「弥太郎の悪党は、あんたの孫じゃねえか」
 と、すごんだ。
「ああ、弥太郎は俺の孫だが、それがどうした」
「そうかい、それじゃ言わせてもらうぜ。あの野郎、俺の女に手を出しやがって。しかも女から3両も巻き上げた上に、とんずらだ。まったく手のつけようのねえ悪ガキだ。爺さんよ、弥太郎の居場所を教えてくれえ」
「知んねえな」
 北斎は胸の内で舌打ちした。
 弥太郎は長女・お美与に婿入りさせた北斎の門人・柳川重信との間に生まれた長男で、今年20歳になる。画工としての重信の腕は確かだったが、手間賃が入ると深川、品川の岡場所にしけこんだ。結婚後も女遊びで家庭を顧みず、6年前、お美与は弥太郎を連れ、北斎の元に出戻った。夫婦仲の悪い家庭に育ったせいか、弥太郎は反抗的で、お美与の手を焼かせた。
 北斎にとっては初孫であり、父親代わりに弥太郎を一人前の絵師に仕上げ、跡継ぎにしようと考えた。蹄斎北馬ていさいほくば魚屋北渓ととやほっけいらの弟子と一緒に修行を積ませたが、飽きっぽく、一向に画力が身に着かない。ある時、北斎の堪忍袋が切れて、大声で叱りつけると、「絵師なんかになるもんか」と家を出てしまった。
 以来、音信不通だったが、1カ月前、ふらりとやって来て、金を無心した。口振りからやくざ者と腐れ縁になり、賭場に出入りしているらしかった。
「嘘言っちゃいけねえよ、爺さんのところに出入りしているのは分かっているんだ。浅草のあの小汚ねえ長屋にな」
「誰か人違いじゃねえのか」
「何だと、この爺。しらを切るのも大概にしやがれ」
 2人の激しい怒鳴り合いに、いつの間にか、往来の人々が集まり、遠巻きに成り行きを眺めている、
「まあ、留五郎、天下の往来で角突き合わせてもしょうがねえ。孫の悪さだ、北斎先生にいちゃもんつけても埒は明かねえだろう。今日のところは俺の顔に免じて引き下がってくれ」
「しょうがねえなあ。お前もお前だ、情けねえ。こんな物まね野郎を先生、先生なんぞと崇め奉りやがって」
 北斎は杖代わりの天秤棒に力を入れ、地面に打ち付けた。
「ものまねちゃ、何だ。もう一回言ってみろ」
「ああ、言ってやらあ。北斎漫画なんぞ、鍬形某の絵手本の敷き写しってもっぱらの噂じゃねえか。巷じゃ、北斎嫌いの蕙斎好きって言われているのを知らねえのか」
 北斎は苦虫を噛み潰した。
 鍬形蕙斎くわがたけいさいは北斎より4歳年下の絵師で、町絵師・北尾重政の門人として正美まさよしと名乗った後、津山藩御用絵師に招聘され、鍬形蕙斎と称した。北斎が勝川派を破門された頃、蕙斎は絵手本「略画式」を皮切りに「鳥獣略画式」、「人物略画式」、「山水略画式」、「魚貝略画式」、「草花略画式」と立て続けに刊行し、世評をさらった。
 無論、絵師として蕙斎の略画を目にし参考にはしたが、北斎には真似しようと企てた覚えはない。ただ、人づてに耳にした蕙斎の陰口は胸に突き刺さっている。「北斎の野郎、とかく人真似ばかりしやがって」と。
「用件はそれだけか。悪いが、油を売っている暇はねえんだ。見ての通り、貧乏暇なしでな」
                        その3、に続く。

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