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柝が鳴る~蔦重と写楽~⑦
第7話、
口さがない町衆の嘲笑が思い浮かぶようだ。
ーー行き詰って、とうとう先祖が帰りか。蔦重も落ちぶれたもんだ
一度ひっこめた大首絵の復活は版元の沽券に関わる。面子を押し殺して再度、挑むには前回以上の仕上がりが要求される。当然、高価な雲母刷りが必須だが、座元にそっぽを向かれ、金子の工面もままならない。
とはいえ、写楽のたっての頼みだ。夏の興行で彼の意向を握りつぶし、立ち姿に切り替え、結局、裏目に出た。経緯を踏まえると、無下に却下し、彼の創作意欲を削ぐのは危うい。
(はて、どうしたものか)
蔦重は長火鉢に載った愛用の猪口を見つめた。
「いってえ、どうしたんだ、黙りこくって。猪口にひびでも入ってるか」
「いや、済まねえ。ちっと考え事してな」
お藤は提下を傾け、蔦重に空けるよう促した。
写楽が去った後、暮れ六つを待って、蔦重は吉原の妓楼・桜寿楼に足を向けた。軒先の誰哉行燈、提灯に火が灯り、新造らのつま弾く清掻の音色が鳴り響く。
「写楽の役者絵か。蔦さんの胸算用通りにはいかねえのか。今度は春の興行より気張って、30何枚か、店先に並べたって話じゃねえか」
「38枚だ、前より10枚も上積みしたんだが」
「数出しゃいいってもんじゃねえだろう。いい絵じゃねえとな。妓楼だって並の女郎をいくら集めてもはじまらねえ。芸事も床あしらいにも長けたお職を張れるような花魁一人がいねえと、身請けできるような上客は集まらねえからな」
「決して写楽の錦絵は悪かねえ。私が見込んだ男なんだ」
「じゃ、何で売れねえ。蔦さんよ、お前さんには分かってんだろう。江戸で指折りの版元にのし上がったんだからな」
蔦重は視線を逸らし、唇を噛んだ。
豊国の二番煎じで愛想を付かされたとは口が裂けても言いたくない。「写楽を信じ、信念を曲げなさんな」とお藤にはきつく念押しされていただけに猶更だ。
「内儀、おや、蔦重の旦那,お出ででしたか」
歌麿がひょっこり、内所に顔を出した。
「歌こそ、版元からお呼ばれの宴席でもあったのか」
「とんでもございません。次の揃物の下絵書きでございますよ。お職の勝間を描いてまして」
「歌さん、まあ中に入りな。知れねえ仲じゃねえんだ」
お藤に促され、歌麿は蔦重の向かいに腰を落ち着けた。
写楽に賭ける、と大口を叩きながら、二度続きの失敗という体たらくだ。しかも、愛弟子の歌麿に冷やかされるようで、蔦重はばつが悪い。
そんな蔦重の気持ちを逆なでするかのように、お藤が話を切り出した。
「歌さんよ、写楽の役者をどうみる。お前さんは当代きっての町絵師だ。気の利いた寸評を聞かせてやんな」
何をぬかしやがる、と一瞬、苛立ったが、蔦重は胸の内を悟られぬように何食わぬ顔を歌麿に向けた。
「遠慮なんかいらねえよ。秋の顔見世興行も控え、是非、参考にしてえから率直に話しておくれ」
「それじゃ、遠慮なく言わせてもらいやしょう。まず、写楽には誰にも真似できねえ天性の秀でた感覚がある。鼻っ柱の高え千両役者連中を手玉に取るような大首絵の発想、描写は写楽をおいて誰もできねえ。この感覚ってのが一番大事で、師匠に教わって、いくら修行しても身につくもんじゃねえ。絵師だけじゃねえ、彫師、摺師、版元、それに女郎もみんな同じでしょうよ。とにかく写楽は次代の役者絵を担う逸材に違いねえ」
蔦重の頬が緩むのを制止するように、歌麿は語気を強めた。
「磨けば光る玉なんだが、その磨き方に私はどうにも合点がいかねえ」
「つまり版元の私が悪い、写楽の才能の芽を摘んでいるって言いてえのかい」
「私は旦那に育てて頂いたからあえて言わせてもらいてえ。夏の立ち姿も決して悪い出来じゃねえが、写楽の真骨頂は何と言っても大首絵でしょう。旦那は重々分かっておられるはずなのに、何で引っ込めちまったんで」
「辞めたわけじゃねえ。歌が見抜いたように、写楽には役者絵の才能がある。その才能を伸ばしてやろうと、立ち姿にも挑戦させたんじゃねえか」
「そうですか、私はそうは思いませんね。大首絵は誰でも描けるもんじゃねえ。顔の大写しだから、胸の内を読み切る力がなきゃいけねえ。写楽にはその力が備わっている。精進重ねりゃ、もっと度肝を抜く絵を描けるかもしんねえ。突き詰めて突き詰めて、私が女絵の大首絵に行きついたのは、旦那が一番よくお分かりのはずだ」
「じゃ聞くが、この間、伊勢孫から出したお前さんの女絵はどうなんだ。売れてるとはとんと耳にしてねえが」
「売れる売れねえは元々、考えちゃいねえ。先刻、お話したように、花魁だけじゃねえ、振袖新造、芸者、羅生門河岸と吉原に生きる女らの胸の底に渦巻く思いを余すことなく描きたかっただけだ」
「錦絵にしろ戯作にしろ、人々が求めるのを出版するのが版元の仕事だ。番頭、手代、丁稚に女中連中を食わせなきゃならねえし、歌ら絵師や彫師、摺師連中にも仕事を回さなきゃならねえ。歌みてえに悠長なことはいってられねえんだ」
「絵師と版元、立ち位置が違うと。それじゃ写楽の才能を握りつぶすつもりかい」
「止めねえかい。その辺でもういいだろう」
「いや、内儀、もう一言だけ言わせてくれえ」
歌麿は襟元を正し、蔦重に低頭した。
「私を育て上げたように、どうか写楽を見放さねえで頂きたい」
第8話に続く。