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佐野乾山発掘記⑨
第9話、
赤城山から吹き下ろす空っ風も収まり、日に日に陽光は輝きを増している。雑木林では枯葉の間からカタクリが競うように可憐な花を咲かせ、斜面を薄紫色に染めているはずだ。佐野市東部の三毳山北斜面には約150万本が自生し、ハイカーら多くの人でにぎわう。カタクリの花は低気温ではしぼんでしまう。幸い陽光の射す撮影日和だ。江上は気温の上がる頃合いを見て、取材に出かけることにしている。
懸案の乾山取材は真贋論争事件に焦点を当てるか、もしくは篠崎の見つけたホンモノ探しに傾注するか、逡巡している。というより、ルーティーンの仕事にかまけて怠けていた。
真贋論争事件に切り込むには半世紀の壁を越え、数少ない関係者を探し出し、タブー案件である以上、取材拒否も覚悟で体当たりしなければならない。
一方、70余年前、栃木県の旧家に眠っていた佐野伝書や陶器類は興味深い。調べると、美術展で長く展示された様子がない。散逸したのか、タブーの影響で所蔵者が拒否しているのか、美術館サイドが展示しようとしないのか。篠崎の調査時と同じ所有者だとしても、了解を得て確認するのは容易ではないだろう。
江上は携帯で同僚の山口を呼び出し、取材経過を伝えた。
「半世紀以上も手つかずだったのに、江上さんのお陰で大きな山が動き出したってわけだ。取材を始めたら、いきなり乾山伝書の写本が転がり込むなんて、とても偶然とは思いない。何か運命めいたものを感じるな。意外と思わぬ展開に発展するかもしれない」
「おいおい、他人事だからって面白がらないでよ。今後の取材を考えると、気が重いんだから。ところでそっちは何を取り上げるの」
「那須水害さ。500年に一度の集中豪雨で、死者行方不明者7人、住宅被害は3000棟、農業被害も甚大だったから。役所で資料集めをはじめたところさ。17年前の災害だから被害者が残っているのが幸いだよ。それに比べ、乾山取材は半世紀前だから大変だろう」
新聞記事には関係者の生の声が不可欠だ。時間の経過とともに生き証人が減り、事件が風化し、なおかつ佐野乾山にはタブーの壁が立ちはだかり、人々の口は重いはずだ。
「とりあえず、地元の取材を始めなきゃとは思っているんだ。当時、美術商に焼物を売った旧家があるわけだから。多分、どの旧家も代替わりしているし、そもそも当時、真贋問題で騒がれて迷惑している話だろうから、取材できるかどうかも分かんないけどね」
「確かに、やりにくい取材だと思う。でも、動いてみるしかないな。真贋が有耶無耶になったんだから、本来、真相を暴くのが本筋なんだろう。とはいっても、秋までの期限に江上さん単独でやるには荷が重すぎるし、今回の企画ではそこまで求めていないからな」
「戦後70年の重大事件の一つとして、事件のあらましと、現在の状況を取材してまとめればいいんだろうけど、闇のように深い事件で、取材先も地元だけじゃ済まない。タブー視扱いしている佐野乾山について、研究者にしろ美術商にしろ積極的に取材に応じるとは思えないんだ」
「分かるけど、ちょっと悲観的過ぎない?これから取材に入るんだろう」
山口の牽制に、江上はたじろいだ。
元々、気の進まない取材で、知らず知らずのうちにやらない理屈をこねまわしていた。言葉が過ぎたのを取り繕うように、山口は話の穂を継ぐ。
「どう、佐野伝書の行方を追いかけたら。栃木県内の旧家で持っていたんだろう。そのほか陶器類もあったんだし。佐野乾山発掘の端緒ということは真贋論争事件の原点じゃないかな」
「ちょっと遠回りのような気もするけど、取材する価値はあると思う」
「そうだよ、再発見できればスクープ物じゃないかな。タブーの壁に風穴を開けることにもつながるんじゃないか」
山口の助言で、江上は暗闇に一筋の光明を見出した気がした。殺人事件の真犯人を追跡し、政治家の汚職を暴き、社会的弱者の声を社会に問う。明確な目標が記者を取材活動に駆り立てる。
早速、カタクリの話題を取材後、江上は乾山に関わる旧家に足を向けることにした。
佐野市街地の旧国道50号沿いは江戸時代、日光例幣使街道の宿場の一つ、天明宿として栄えた。現在でも雑居ビルや商店などの間に、江戸後期以降に建てられた見世蔵、重厚な黒漆喰塗りの土蔵を目にできる。
本陣跡の交差点を北に曲がり殿町通り沿いに、古めかしい出桁造りの2階建ての商家が見えた。瓦屋根の上、ケヤキの一枚板できた看板「伊勢や本店」がその店の歴史を感じさせる。老舗の和菓子屋で、真贋論争事件の際、乾山作品の所蔵家の一軒として話題となった室田家だ。
江上が若い女性店員に用件を伝えると間もなく、奥の作業場から白衣姿の小柄な中年男性が姿を見せた。社長の室田一雄だった。
「佐野乾山の取材ですって」
室田は露骨に嫌な顔を見せた。
「不躾な質問で恐縮ですが、あの真贋論争事件の折、所蔵されていた乾山作品を都内の美術商に譲渡されたと聞いたものですから……」
江上の質問を遮り、室田は、
「何もお話しすることはありません。祖父も父も他界し、私も幼少時で当時の事情は全く分かりませんから」
と、取材拒否の構えだ。
「乾山作品を所蔵していた経緯とか、美術商への売却の話とか、何か伝え聞いているでしょう。どんな些細な話でもいいんです、お聞かせ願えませんか」
「何も分からないといっているでしょう。それに今更、ほじくり返してどうするんですか。迷惑なんですよ。お宅の新聞社だってやれ本物だ、偽物だって煽り立てて、迷惑千万だったんですよ。今更、寝た子を起こして、また騒動を起こすつもりですか」
まったく取り付く島がない。江上の予想以上に、関係者の後遺症は重症だ。
「騒ぎを起こそうなんて気持ちはまったくありません。戦後70年を迎え、戦後の大きな事件などを扱う特集の中で、佐野乾山を扱うことになっただけです。どうか、ご協力いただけませんか」
「何度言ったら分かるんです。話すことはないんです。それに余計な心配かもしれないが、お宅の新聞に傷がつくから、佐野乾山は止めときなさい、悪いこと言わないから」
室田はあくまで頑なだ。再度訪れても取材拒否は必至だろうし、この様子では他の旧家も望みは薄い。ここは帰れと言われるまで粘るしかない。
「それでは最後に一つだけ。真贋論争の話はやめましょう。戦前の話なんですが、地元の郷土史家で佐野乾山を詳しく調べた篠崎源三さんはこちらに伺って調べませんでしたか」
「篠崎さんねえ……」
室田は一層、険しい表情を見せた。
「篠崎さんは調査に来たのですか」
「来たとか来ないとかじゃないんだ。あの人は戦前、自分で見つけた物だけ、本物だと言い張ったそうじゃないか、まったく。もっとも、あの作品も盗まれったって話だけど」
「盗まれた?」
「乾山の取材をしていてそんなことも知らないの。随分前だけど、新聞やテレビのニュースであんなに騒がれたじゃないの」
江上はハンマーで殴られた気がした。山口の助言で取材に前向きになった矢先、また先行きに暗雲が垂れ込め始めた。
第10話に続く。