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佐野乾山発掘記⑦

  第7話、
 徒手空拳で場当たりな取材になっている。基礎知識の不足だ。文献を読み漁り、乾山のイロハから学ぶ必要がある。
 車に乗り込み、江上は携帯電話で足利市の図書館に連絡した。以前、人物紹介で取材した司書の関根に相談しようと思い立った。彼女は40代のベテランで、人当たりがいい。
「佐野乾山、戦前に出版されたの、少し古いわね。うちの郷土資料室にはないから」
 手元のパソコンのキーボードを打ち込む音が聞こえる。2、3分後、彼女が
「宇都宮の県立図書館もないし、国立国会図書館でも見当たらないの。余程、希少な本のようね。どっかで持ってないかしら。そのまま、ちょっと待って」
 と前置きし、再度、検索した。
「探せばあるものね。県内で唯一、所蔵している公立図書館があったわ。お借りできるか確認して、連絡しますね」
 物資の乏しい戦前の出版物で、発行部数が少なかったらしい。全国の主要古書店が加わるオンラインショップで検索したが、ヒットできなかった。県内の図書館が持っているとは思いも寄らなかった。
「ついでに、これも佐野乾山関係で、松本清張の書いた著作物を調べてもらえませんか」
 部会の席上、真贋論争事件の際、各界の著名人が論争に加わり、その一人に彼が入っていたのを江上は思い出した。
「これかしら、題名が泥の中の佐野乾山。昭和37年10月に発行された芸術新潮に載っているみたい。あら、ラッキー、県立図書館で持っているわ」
「本当、それも、直ぐに手配して」
 江上は市街地から南に車を走らせた。
 珍しく空っ風も吹かず、冬の陽光が降り注ぐ穏やかな一日だ。沿道の畑地に緑色の葉物が並んでいる。両毛地区の伝統野菜、カキナが収穫期だ。
 ハンドルを握りながら、江上は思いを巡らせる。
 足で稼ぐ。取材活動の心得だ。空振りが通例だが、予想外に収穫が相次ぐ。ふらりと立ち寄った古本屋で乾山伝書の写本に巡り合い、紹介された郷土史家に乾山調査を先導した篠崎源三や乾山と関わった旧家の情報を得た。探し求める篠崎の著書も近く手に入る。躊躇いながら恐る恐る船出し、思わぬ追い風を受け、舵取りに翻弄されている感じもする。
 越名馬門河岸跡は旧秋山川沿いにあった。冬枯れの水路に細々と水が流れるだけで、江戸時代、200隻もの高瀬舟が停泊した往時の面影は一切ない。
 その水路沿いに民家が立ち並び、その一軒が須藤家だった。
「佐野乾山ねえ。まあ、それはご苦労様です。大したものは残ってないけど」
 事前に電話で事情を話した際、芳子と名乗る高齢女性は、江上の懸念をよそに積極的に取材に応じる意向を示していた。
 居間の座卓には佐野乾山の見出しが躍る新聞の切り抜き、手紙、写真などが並んでいる。
「あん時は、記者が突然、続々とやってきて、バーナード・リーチさんや有名な学者先生も顔を見せたから、一体、何事かと驚いてね。本物だ偽物だ、としばらく大騒ぎでさ」
 田畑に囲まれた長閑な集落に突然、普段、見慣れない社旗を立てた新聞社の車が押し寄せ、紳士然とした文化人が詰めかけては、騒然としたのも頷ける。
 江戸時代、須藤家は越名馬門河岸を代表する河岸問屋の一つで、酒や醤油醸造、質屋なども営み、屈指の富豪だったようだ。乾山と関わるのが五代目の杜川で、芳子は十二代目に当たるという。
「当時、敷地に沈柳斎っていう庵があって、乾山を招いて焼き物を焼いたらしいと聞いてる。でも皿一枚、何にも残ってないけどね」
 芳子に促され、江上は新聞の切り抜きを手に取った。日付順に並び変え、活字を追う。
 昭和37(1962)年1月19日、朝日新聞のコラム「青鉛筆」は、バーナード・リーチが京都の収集家所蔵の乾山の楽焼70点を見て、「全部ホン物」と折紙を付けた、と報じている。
 次いで、毎日新聞が「名陶″佐野乾山〟ぞくぞく、本物?ニセ物?また″永仁のツボ〟」の内容で掲載。その後、他社も後追いし、真贋論争が加熱した様子が切り抜きから伺える。
 永仁の壺とはその2年前、国重要文化財の壺が陶芸家・加藤唐九郎の作品と分かり、指定解除された事件だと、江上はスマホで調べて知った。美術界を震撼とさせた事件の記憶も新しく、乾山と幽霊は見たことがないと揶揄されるほど希少な乾山作品が一挙に二百数十点も地方都市の佐野市から突然出現したことにメディアが色めき立つのも理解できた。
 記事を要約すると、事件発生の3、4年前、都内の美術商、斎藤素輝が佐野の美術商を通じて佐野市内で乾山を複数回購入し、都内の美術商、米田政勝に転売、京都の美術収集家、森川勇が買い求めた。事件の発端はバーナード・リーチがその森川の所蔵品に太鼓判を押したことだ。
 東京国立博物館の研究者らが真作と断定する一方、切り抜きには作家の川端康成が贋作と断じるコラムもあった。衆院文教委員会でも取り上げられた経緯が記されていた。
 セピア色に変色した記事の数々が当時の大騒動ぶりを想起させる。その後、真贋決着のつかないままタブー視扱いされて半世紀以上。取材を進めるにつれ、どんな展開が待ち受けるのだろうか。今の江上とって、期待よりも不安が大きい。
 拾い読みする記事の中に、篠崎源三の談話が目に止まった。読売新聞の同年2月9日付で、篠崎の住所は佐野市天神町、肩書は栃木県文化財審議委員長になっている。
 ーー「乾山が佐野に来て焼いた、いわゆる″佐野乾山〟はわたしがみたところではホンモノは6点にすぎない」と″新発見〟を否定している
 と、報じていた。
 新発見を否定しながらホンモノは6点とは、一体、どういう意味なのだろう。
 記事を読み進めると、
 ーー(佐野乾山の)事実が明らかになたのは昭和17年ごろ、篠崎氏らの研究によってである、
 と、先駆者として篠崎の名を挙げていた。
(キーパーソンは篠崎源三か)
 その切り抜きから目を離し、江上が顔を上げた。
「随分、熱心に読んでたけど、お茶が冷めちゃうよ。一息したら」
「ところで、佐野の人で乾山を調べていた篠崎源三って知っていますか」
「知っているもなにも、当時、何度もやって来ましたよ。あれ、ここに持ってこなかったかな。ちょっと待っていて」
 芳子は席を立ち、まもなく冊子を手に持ってきた。
「篠崎さんに頂いて、大事にしているんでね」
 探し求めていた篠崎著の佐野乾山だった。茶褐色のわら半紙のような粗末な紙で、A5判大、52ページの薄い冊子だ。贈呈のしるしとして篠崎の署名があった。
「ちょっと、一つ確認させて下さい」
 芳子から受け取り、江上は裏表紙をめくった。
 ーー昭和17年4月10日発行
 と、ある。
 真贋論争事件のちょうど20年前だった。
                       第8話に続く。

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