見出し画像

柝が鳴る~蔦重と写楽~②

  第2話
 蔦重は奥座敷の襖を開けた。
 座敷には1人の男の姿がある。細面に切れ長の両目、鼻筋が通り、唇は薄く、端正な顔立ちだ。ただ、両鬢の髪はほつれ、顔色は青白く、両目が落ちくぼんでいる。
「精出してやってるみていだな。その調子で頑張ってくれ」
「はい、お陰様で」
 その男は絵筆を置き、蔦重に丁寧に頭を下げた。男の脇には画紙の山が積まれ、描き損じた反故紙は乱雑に折り重なっている。
「紹介しておこうと思ってな。絵師の喜多川歌麿だ」
「お初にお目にかかります。歌麿様にお会いできるとは光栄にございます。私は写楽でございます」
「見かけねえが、写楽さんとやら、お前さんも絵師なのかい」
「はい、蔦重殿のお引き立てでこの度、錦絵を手がけることになりまして。この座敷をお借りして専念している次第です」
「版下絵を描いているようだが、一体、どんな錦絵を仕立てようってんだ」
 歌麿の問いかけに、蔦重が満を持したように口を挟んだ。
「役者絵よ」
 蔦重は手元の桐箱から1枚の版下絵を取り出し、得意満面に差し出した。
「この写楽が描きゃ、こうなる」
 吊り上がった眉に両目、鷲鼻、引き結んだ唇が極端に誇張され、胸元から飛び出た両手は不自然ながらも迫真的で緊迫感がみなぎる。恋女房染分手綱の一場面、3代目大谷鬼次の扮した奴江戸兵衛が奴一平に挑みかかる一幕だ。
 歌麿は瞬きもせず、版下絵に魅入る。旧来の粋で鯔背な役者絵とは一線を画し、斬新で独創的で見る者の度肝を抜く。版元・蔦重が意気込むのも分かる。
「どうでえ、歌。何か、言わねえかい」
「面白え」
「面白え、それだけか?写楽の役者絵に圧倒されちまったのか。女絵で一世を風靡している天下の歌麿じゃねえか、ちゃんと寸評しておくれ」
「正直、驚きました。奇抜で斬新で。春章にも豊国にも描けねえ、写楽独自の絵に仕上がっている。いくらか素人っぽさが目立つのが気になりますが」
「さすが、歌だ。見抜いたのかい。実は写楽は阿波徳島藩主蜂須賀家のお抱え能役者だ。本名は斎藤十郎兵衛と名乗る。絵の腕は確かにまだ一人前じゃねえが、画技はこれから修行を積みゃどうにかなる。なにより惚れ込んだのは、この発想力だ。誰にも真似できねえだろう。それで私が聞きてえのは、売れるか売れねえかだ」
「売れるかですかい、つまり世間受けするかと……」
 歌麿は言葉に詰まった。役柄以上に役者に焦点を当て、写実的過ぎる。奴江戸兵衛や奴一平なら許せても、この手法で女方を描いたら醜さを隠しきれない。蔦重は織り込み済みなのだろうが。
「歌よ、私はかねがね役者絵で勝負しようと考えてきた。ようやく写楽に巡り合えて、絶好の機会を迎えたんだ」
 錦絵の題材は江戸二大悪所と揶揄される吉原遊郭の遊女と、歌舞伎小屋の役者衆だ。遊女らの女絵では蔦重は歌麿を起用し、大首絵で不動の地位を築いた。残るは役者絵。第一人者の勝川春章が2年前に没後、蔦重は春章の弟子だった春朗、春朗の弟弟子、春英と相次いで白羽の矢を立てたが、不調に終わっている。
 今年の正月、芝神明前の版元、甘泉堂、和泉屋市兵衛が若手の歌川豊国を打ち立て、大判錦絵の揃物「役者舞台之姿絵」を刊行させ、話題を呼ぶ。遅れをとるまいと蔦重は写楽での巻き返しに躍起となる。
「今、評判の豊国は立ち姿の役者絵だ。なるほど、それで旦那は写楽の大首絵で対抗する考えで」
「そういう次第だが、私が指示したわけじゃねえ。あくまで大首絵の発案は写楽で、写楽の大首絵に運よく出会えた。お天道様の施しかもしんねえな」
 歌麿は正面の写楽に顔を向けた。
「どころで写楽さんよ、一つ、聞きてえことがある」
「何でしょう」
「旦那にも寸評したように、この版下絵はてえしたもんだ。そこで聞きてえんだ、どうして役者絵を大首絵で仕立てにしようと思い立った」
「物心ついた頃から、筆を持って書き写すのが好きでして。仕事柄、芝居を観るのが好きで、芝居小屋に通い詰めるうちに、役者の似顔絵を描いていた次第でございます」
「好きなのは分かるが、好きだけじゃこれだけ描けねえだろう。鬼次以外も、役者連中の姿かたちを噓偽りなく描くんだろう?」
「はい、そのつもりですが」
「なら、相当な覚悟があるんだろう。役者らに睨まれるかもしんねえぜ。だから、なぜ、ここまで描き込むかを知りてえんだ」
「そりゃ……」
 写楽は口に出すのを憚るように視線を逸らした。
「まあまあ、その辺でいいじゃねえか、歌麿。写楽の動機はともあれ、版下絵は十分、豊国と勝負できる代物なんだからよ」
 蔦重が苛立ちげに、口を挟んだ。
「豊国の揃物に対抗する気じゃ、相当、大々的に売り出すつもりで」
「何度も言ってるじゃねえか、写楽で勝負すると。私はこの男に賭けているんだよ。五月興行に合わせて、2、30枚を一斉に売り出す予定だ。その上、出すもの全て黒雲母刷りの豪華仕上げにしようと思っている。どうだい、売れると思わねかい」
 歌麿は耳を疑った。素人、新人の写楽に役者連中の反発も覚悟で、湯水のように金を使う。身上半減の余波で懐は苦しいはずだが。蔦重の余りの自信ぶりが空々しくも感じる。
「版元がそれほど入れ込むなら間違いねえでしょう。算盤勘定は絵師には皆目できねえもんで」
 歌麿は当たり障りの言い回しで、喉元まで競り上がった言葉を飲み込んだ。
(話題にはなるが、到底、売れる代物じゃねえ。私の女絵と同じじゃねえか。蔦重、焼きが回ったか)
                          第3話に続く。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?