佐野乾山発掘記⑤
第5話、
表紙をめくると、
ーー乾山伝書 足利 丸山瓦全蔵
とあり、本文らしき記述が
ーー本焼山窯並薬法
○地土の方惣て陶器に造り候
一、陶器の土の儀は何国の土にても能試み用候……
などと続く。
付箋に紙数49枚とある。B5判大の縦書きの罫紙はセピア色に変色し、流麗な毛筆で書き連ねてある。
江上は自宅に戻り、居間のソファに寝ころびながら、古本屋から借りた「乾山伝書 丸山本」に目を通している。
苦手な古文に四苦八苦しながら拾い読みをすると、陶器に使う陶土や釉の製法などが認めてあるようだ。2部構成で、後半は内窯焼陶器之事の見出しで、同様に製法の記述らしい。
前半は、
ーー元文二年巳九月十一日
乾山七十五歳翁
深省
と締められ、
後半部分は、
ーー元文二年巳九月十二日
京兆乾山陶工 紫翠老人
深省
文政十丁亥年十一月吉日写之
丸山清右衛門貞隣
で終わっている。
乾山が75歳の元文2(1737)年9月11、12の両日書き記し、90年後の文政10(1827)年11月、丸山某が書き写したようだ。
末尾に、
ーー昭和25(1950)年5月29日 鈴木光昭
と、署名があり、半茶、半泥子、鈴木光昭の順で、当時、丸山瓦全の所蔵していた乾山伝書の写本を書写した経緯が記載されている。
スマホで検索すると、半泥子は高名な陶芸家、川喜田半泥子で、記述内容から半茶、鈴木光昭も乾山愛好者と推察できた。
足利の丸山家は旧家で知られ、瓦全は有名な郷土史家だ。戦後まもなく、丸山家に伝来した佐野伝書を知り、半泥子らが驚喜し、競うように書き写したことがうかがえる。
写本とはいえ、乾山の佐野来訪を裏付ける貴重な史料の一つなのかもしれない。
(えらいもんが転がり込んできたな)
冊子をテーブルに置き、江上は躰を起こした。
半世紀前の真贋論争事件を調べるはずが、一気に、江戸時代まで時代を遡り、佐野乾山の原点に連行された気がする。タブーの壁を超えるには一から学び、調べろというサインか。
写本がある以上、その原本があったはずだ。原本、丸山本と呼ばれる写本とも現存するのか。なぜ、佐野でなく足利の旧家が関わっているのか。そもそも、この佐野伝書は本物なのか、偽物なのか。真贋論争事件と、どうつながっているのだろう。
謎や疑問が次々、脳裏を飛び交い、
(やれやれ……)
と、江上は嘆息を洩らした。
この取材には相当な時間と労力を要する。他の案件に振り替えてもらおうか。
江上の弱気を察したかのように、携帯電話が着信を知らせた。デスクの西城からだ。
パソコンの隅の時計を見る。午後3時過ぎだ。今日の出稿予定の連絡を忘れていた。記事の催促に違いない。
「事務連絡で、県北地区の雪の影響で降版が一時間繰り上げとなりました。その上、今日は記事も薄めなので困っているんですが、軽めでもいいですからトップになるような記事はありませんか」
「トップ記事ですか、難しいですね。今日は足利学校の寒紅梅の開花を写真付きで送ろうと予定していたものですから」
「トップは無理でも、長めの段ものは出ませんかね」
通常の栃木版ではトップ記事のほか、骨となる3、4本の記事が最低、必要となる。記事欠乏症が相当、深刻らしい。さらに降版の繰り上げが追い打ちを掛け、デスクの西城は焦りを隠せない。
「申し訳ありません、今日はちょっと例の戦後企画の佐野乾山の取材もあったもので。明日は何とか話題を探して出稿しますから」
「お願いしますよ。何か出稿できそうなら直ぐに連絡下さい。紙面を開けときますから」
「その時は直ぐに電話をしますから」
江上が携帯を切ろうとすると、
「それで佐野乾山……」
と、西城が話を続けている。慌てて江上は再度、スマホを耳に当てた。
「ええ、何でしょうか、佐野乾山が」
「何か、面白い話はつかめましたか」
「いえ、知り合いの古本屋の店主が真贋論争事件のことを知っていたので。今でも地元でタブー扱いで、研究者や学芸員らも及び腰で取材相手を見つけるのは簡単じゃないと言われて。どうなんでしょう、掘り下げるとなると時間もかかるし、結構、厳しい取材になるかなと」
江上の期待を裏切るように、西城は釘を刺した。
「秋まで時間はありますから。一度、封印された美術界最大のタブー事件に切り込むんですから、大変でしょうが、とにかく取材を続けてください。この戦後企画の目玉になると期待しているんですから」
「ああ、そうですか」
デスクの指示とあればやらざるをえない。
「あっ、そういえば篠崎源三って知っていますか」
「いえ、知りませんけど。何者ですか」
「佐野の人で、佐野乾山って本を出しているらしいんです。ネットでたまたま見かけて」
宿題をまた押し付けられたようで、江上はげんなりした。
第6話に続く。