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佐野乾山発掘記⑪

  第11話、
 本文を再度読み直す。誤字脱字はない。仮見出しを「カルガモ、無事に育って」と付け加え、江上は宇都宮支社に送信した。
 国史跡足利学校の外堀に今年もカルガモが営巣し、雛8羽が巣立ったという。今朝、市広報課から広報メモがメールで入り、江上は早速、現場に直行した。運好く、親鳥周囲に雛鳥がまとわりついて泳いでいた。なんとも愛らしい。初夏の恒例記事で、写真のアングル、記事の言い回しなど前年と同じにならないよう工夫した。
 東京・大手町のカルガモ親子が話題になって30年以上は経つだろう。以来、全国各地で同じ光景がメディアに取り上げられる。カルガモは絶滅の恐れのある希少な野鳥ではなく、どこにも生息する狩猟鳥だ。気持ちが和む一コマだが、読者、視聴者は食傷気味ではないだろうか、もっと伝えなければならないことはないだろうか、とは思う。
 気持ちを切り替え、江上は取材ノートを開いた。
 乾山研究者の一人、奈良原の連絡先が書き留めてある。奈良原の著書を読み、真贋論争事件に関して独自の見解を展開していた。面識もなければ伝手もないが、社名を名乗れば否応もなく相手が応じてくれるのが記者の強みだ。
 奈良原の勤務する南北大学に電話を入れた。受付の女性が奈良原は研究室に在室しているという。江上は奈良原に代わるのを待った。しばらくして奈良原が出た。
「どういうご用件でしょう」
「古い話で恐縮ですが、佐野乾山の真贋論争事件について取材をしています。戦後70年の節目の年で特集を組むことになり、教授からお話を伺いたいと思いまして」
「いや、申し訳ない。現在、ある研究で手一杯でしてね。とても取材に応じられませんね」
 奈良原は、江上の質問を予期していたように言下に固辞した。
「教授の都合に合わせ、そちらに伺いますので。質問も絞り、決して手間取らないように配慮しますから」
「とにかく忙しいんです。来てもらっても取材に応じられませんね」
 低姿勢な協力依頼にも、奈良原の頑なな姿勢は変わらない。
「それでは電話取材ではいかがでしょう?この電話でも結構ですので、お願いできませんか」
「とにかく忙しいんです。無理ですね」
「時間は取らせません。半世紀前のあの真贋論争事件を研究者としてどう受け止めていらっしゃいますか。あの時、旧家から出た200点余の作品はやはり贋作なんでしょうか、戦前、篠崎さんが発掘した作品とは別物なんでしょうか」
 奈良原は著書の中で、真贋論争時の作品は篠崎の業績を元に制作されたとの考えを示している。有事に備え、江上は用意していた質問をたたみかけた。
「忙しいんです。電話を切らせてもらいますよ」
「ちょっと、待ってください。あの事件のコメントを頂けませんか」
 一瞬、無言となり、江上は微かな期待に右手のボールペンに力を入れた。
「大変な取材です。どうぞ頑張ってください」
 そう言い残すと、奈良原は一方的に電話を切った。
 思わぬ返答に当惑し、呆れ、怒りがじわじわと江上の胸に押し寄せてきた。
(乾山専門の研究者じゃないか。新聞記者にエールを送ってどういうつもりなんだ)
 言質を取られまいとする受け答えが、「忙しい」に集約されていたようだ。自身の主張、見解が過去に物議を呼び、口を閉ざしたのか。保身に汲々とする姿勢が痛ましく哀れにさえ、江上には思える。
 半世紀以上経ち、タブーの壁は依然、高く厚い。心ある乾山研究者はいるのだろうか。
 机上に並べていた資料を片付け始め、江上は借りた資料を返すのを忘れていたことに気が付いた。真贋論争を伝える各新聞のコピーだ。スマホの電話帳から須藤芳子を選び出し、タップした。
「使うわけじゃないから、返してもらうのはついでで良かったんだけど。でも折角来るなら、聞いてもらいたいこともあったのよ。ちょっと腹立たしくてね」
「乾山ことで何かあったんですか」
「東京で乾山展をやってるからわざわざ行ってきたんだけど、まったくもう、本当に……。電話じゃ口下手だし、来た時に話すわ」
 乾山展を開催中とは、江上は知らずに恥じ入った。芳子の口ぶりから、佐野乾山と須藤家に関して理不尽で不都合なことがあったに違いない。
 定刻に訪ねると、芳子は顔を顰め、乾山展の目録を差し出した。
「見てよ、佐野で作った作品は一つも展示されてないんだ。あんな事件があって、本物か偽物かもはっきりしないから出せないんかもしれないが。篠崎さんが見つけたもんもあるだろうに。佐野に乾山が来たことを無視しているのかね」
 江上はその部厚い図録のページを手繰った。
 乾山は野々村仁清に作陶を学び、鳴滝泉谷で乾山窯を構え、その後、二条丁子屋町に移転、晩年は江戸に下る。図録では時系列で乾山の手掛けた陶器や書、弟子らの作品など数多く網羅している。
 百点以上に及ぶ展示作品の中に佐野で手掛けた作品、つまり佐野乾山は見当たらない。掲載されている主宰者、研究者の論文も言及を避けている。
 年表に申し訳程度に記述があった。
 ーー元文2(1737)年9月、佐野を訪れ、陶磁製方を執筆
 その年表は明治、大正、昭和と弟子らの足跡も追っていたが、昭和37年に発生した佐野乾山真贋論争事件は記載されていない。事件に関連した作品をクロとして無視したのか、タブーを犯し寝た子を起こすことを恐れたのか。
「半世紀前のあの騒ぎは一体何だったんだろうね。東京や京都から学者先生が私の家に相次いで訪れて調べていったのに」
 芳子が憤慨するのも頷ける。乾山の佐野来訪を軽んじることは、乾山の招へいに一役買った須藤家を軽んじているように受け取ったのだろう。
「事件に先立つこと20年前には篠崎さんがきちんと調べて……。芳子さん、もう一度見せてください」
「どうしたの、慌てて」
 江上は図録を手元に引き寄せ、参考文献の一覧を開いた。
 筆者と書籍や論文名、発表年が四ページにわたり列挙されている。200点近くはある。取材で目にした著名な学者が並ぶ。先日、取材拒否された奈良原教授の論文類複数も目に入った。3度、4度と確認したが、探し物は含まれていない。
「どういうことなんだろう」
 江上は顔を上げ、呟いた。
「何か、分かったのかい」
「篠崎さんの書いた冊子持ってましたよね。佐野乾山というタイトルの」
「ええ、この間、見せたはずだけど。戦前、何度も家に取材に来て、取材のお礼でわざわざ持って来てくれたと聞いているけど」
「その冊子が無視されているんですよ、この図録では」
 芳子は両目を見開き、怪訝な表情を見せた。
(年表に記載した乾山の来訪を裏付け、陶磁製方を世に送り出したのは篠崎ではないか)
 江上は図録を閉じ、右手で表紙を叩いた。
                        第12話に続く。

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