しばらくニュースは見ない

こういうことが起きて、一斉に反応して、その人の背景とか気持ちとかこれまでのこととかを邪推する。
その一端を担いたくないけれど、
どうにも自殺については昔からもったいないな、という思いがどんどん沸き上がってしまう。
もったいない。
言い方が悪いかもしれない。人の命をなんだと思ってるんだ、なんて言われそうだ。

わたしの思考、いや、思考の整理には誤解がつきものなのかもしれないとちょっと思っている。
自分の命だから、どういう選択をするかは自由だ。

とても思うのは、当人のつらさや痛みは当人にしかわからないということ。

当たり前なんだけど、いつも忘れてしまう。
わたしはわたしの役しかしたことがないから、わたしの尺度でしか物事をはかれない。
だから順風満帆なのに、そんなことで、なんて軽々と言ってしまいそうになる。
なんで、はいつまでも解決しない。
答えはもうない。
残ったのは消化不良のなにか。
自殺で嫌なところは、周りのもっとなにかできたのではないか、気づいてあげられたのではないか、って後悔や責める気持ちを生んでしまうことだ。
だれも悪くないのに。
死んだひとも悪くない。
決断したのだから。
なかには決断というほど、はっきりとした意識でないひともいると想像するが。
どんな状況にせよ、当人にしかわからないものから解放(適切な言葉が思いつかない)されようとした末の選択。

選択だったなら、ほかの選択肢を取ってほしかった。
だからもったいないと無責任に、思う。
毎年二万人は死んでいく。
わたしが注視していたときは三万人超えが当たり前だった。
たしか、数ヶ月前にふと調べたときに三万人を下回っていた、と記憶している。
それでも多い。

なにかギリギリで食い止める方法はないのか、と考える。
でも、当人しかわからない痛みを、どうやったら見つけられるだろう。共感できるだろう。寄り添えるだろう。

ひとの傷は見せられたほうもダメージを受ける。

ひとの心には最適解がない。

ただ悲しい。

一方でひとは悲しむだけでない強さもある。

だからひたすらにもったいないと思う。
かといって生きていれば楽しいこと幸せなことがあるよ、なんて言えない。
楽しいも幸せも自分からの発露で。

こういうの、下書きで済ませたほうがいいのかなとも思う。
でも今のわたしは公開するつもりで書いている。
わたしの指針に必要なことだから。

目につくところにホワイトボードで自分の気持ちや思ったことを書くようにしている。
ここ一ヶ月か二ヶ月はこれだ。

生きていてくれてありがとう。
わたしはわたしの為に。
生きて、活きて、
傷ついても大丈夫。と思える。

思いたい。のではなく、思える。と決めた。
だから、なんで、ばかりのニュースは見ない。

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