「生きる力」を楽しくみがく
この本を前に、ここ1ヵ月ほどうんうん唸っていた。
生活図鑑 -『生きる力』を楽しくみがく
おちとよこ(文)平野恵理子(絵)(福音館書店)
この本には生活のことが載っている。
衣食住。
知らないと健康や命にかかわるものから、
毎日の生活に欠かせないこと、
知っておいたほうがよいこと、
必須ではないが、やってみると楽しく心地よく暮らせることまで
図鑑(絵による説明)の形で紹介されている。
「楽しくみがく」というサブタイトルが印象的だ。
唸っているのは、この本を貫いている「自立」というテーマに。
掲載されている順番は食、衣、住。
・食ー食生活には発見がいっぱい!
・衣ー上手に自己表現しよう!
・住ー心地よく暮らしたい!
という見出しで、各章の最初の1ページが子どもの読者へ向けた手紙のようになっている。
短い文章なのだけれども、手渡しているものはずっしりとした重さがある。
これを読んでいると、生活とは、誰かに運用を任せるものではなくて、自分自身をどう生かすか(活用ではなく)という話なのだと気づく。
自立。生きる力。
このボリューム。
まず手に持って感じるのは、厚み、重み。
それからこの項目数の多さ!
もちろん人によっては持っていない物、やっていないこと、やらなくても生活が成り立つことはたくさんあると思う。時代の変遷もある。やりたくてもできない事情もあるだろう。自分でやらないまでも、外注するか、都度買うことにするかの選択は自分がすることになる。
「発生する可能性のあること」が相当網羅されていると思う。
ともかくそれらがずらり一覧できる、項目として並んでいることに意味があると思う。
わたしがもう何十年も当たり前のようにやっていることを、図や文章で説明されて発見することも多い。あるいは、はじめて知ったというものもたくさんある。知ってはいてもできないものもたくさんある。
この図鑑にのっているもので、すぐに、簡単にできるものは実はそんなに多くはない。どれも知識や経験必要で、失敗を経て学びになり知恵になっていくものばかりだ。やってみてわたしにはできなかったものもある。
生活とは知恵の蓄積だ。
多岐にわたり、日々の調整と配分があり、計画がある。外注するかどうかも、どこに外注するかも、知識と経験と知恵の要ることだ。
されど生活!
こんなにも複雑なことを一挙に取り扱っているのだ!と感嘆させられる。
それも、24時間365日。
子どもたちへ書かれていること。
「子ども」の年齢や環境や経験にもよるだろうけれども、かなり高度だと思う。わたしはこんなにたくさんのことを自分の息子に手渡していけるだろうかと一瞬不安になる。が、もし手渡せなくても、こういう本がある、とも思い直す。全部できることがいいわけでもない。いや、もちろんできたらすごいけど。
気づいたときに、「生きる力を楽しくみがく」に取り組んでもらえたらなと思って、今生活を共にしている。この本にある「発生する可能性のあること」と「発生したときにどうすればいいか」がわかるということだけでも、なにかの役には立つのではないか。
それから、子どもの中には、「生活」をじゅうぶんに経験しないで育つ子、社会に出なければならなくなった子もいる。子どもには、子どもの自立を支える大人たちが必要なのだということも、同時に考えさせてくれる。
著者のおちさんがこの本を書くきっかけになったのは、大学生たちの食生活が引き金だったという。それが「親のせい」と言われると、わたしも胃が痛くなるが、親ができないときでも、この本をはじめ、代わりに自立を支えてくれる存在がたくさん出てくるといいなと思う。
今当たり前にできている人も、はじめは教わって、体験して、失敗して、フォローしてもらって、学んで、知恵にしての繰り返しで身につけてきた。それを「自然に学んでいく」とせずに、こういう「テキスト」をきっかけに、チェックリスト代わりに、伝えていくことも、さまざまな手段でできるのではないかと思った。
ここに性別や役割は一切関係ないこと。
生活は人間全員がすること。
つまり、生きることそのもの。
わたし個人としては、自分の生活を自分の手で整えていくことに、生きている実感を覚える。さらには、この自然災害の多い日本という国に暮らしていて、何かあっても自分でできることを一つでも増やすことや、知識だけではなく実体験を重ねてみることのほうが、生きる力につながっていくという考えを持っている。
この本を読んでいると、性別(女性、男性、さまざまな性)や役割(親、母親、父親、保護者など)に言及している箇所はほぼ見られない。
本のあとがきにこんな言葉がある。
中高年の男性向けのセカンドライフや介護を考える講座でお話する機会が重なり、「炊飯器の使い方も分からなくて」「ボタン付けが...」と妻や母親の思わぬ入院に、お手上げの男性たちのため息をたくさん聞きました。高齢社会を迎え、男性にも性別役割分担の思わぬ後遺症が飛び火していたのです。それこそ、子どもはもちろん、おとなも、そして男も女も、「生活の主人公」として自分自身の足元を見直すときに来ていると実感しました。
一人ひとりが。
生活の主人公として。
もしもその機会を放棄してきた人や、恵まれてこなかった人がいたら、いつからでもなんとかして学びなおして、生きる力をみがいて、自立していくことを願いたい。
性別役割分業の功罪について。
しかしながらわたしたちの社会には、この生きることそのものである「生活」のことと、性別や役割や経済力のことが結び付けられてきた長い歴史があり、今もまだ強固に人々の心に、さまざまな形で内在している。
その影響が家庭や社会の中でさまざまな問題を引き起こしているという現状に対して、わたしは一番唸っている。
家庭を営んでいれば、生活には子どもの世話(乳幼児期)、子どものケア、子どもの教育、家計(経理、財務)なども含まれてくる。近所づきあいや、子どもの保護者とのつきあい、学校との関係も出てくる。ほんとうに生活の扱う範囲は広く、複合的で、全方位的だ。
最近ある本を読んだ。
その中で交わされている夫婦の会話に心底胸が痛くなった。
その本のタイトルも出せないし、感想もうまく書けないのだけれども、ただ一つ声を大にして言いたいのは、生活とは全員がするもので、生きることそのもので、そこに性別も役割も関係なく、もっと言えば、上下関係なんかない。生活にそれらを持ち込むのは、人間に対する差別だ。
たとえば、もしも、「家のことを何もやっていない」「たかが家事ぐらい」「生活面はお前の担当」などと配偶者や同居家族から揶揄されたり非難されるようなことがあったら、この図鑑にある「生活とは何か」や「自分がやっていること」を全部書き出したら、十分な反論になるだろう。
それに対して「それぐらいできて当たり前でしょ」「自力でもできるけど、それがあなたの仕事だからやらせてる」という反応が帰ってきたとしたら、それは相当生きる力が乏しい人としてみなして、関係を終わりにしてもいいのではないかと思う。
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わたしは生活を大切にしたいし、人や社会に影響を与えるよい仕事は、その延長にしかないと信じている。
わたしは女性として生まれ育ち、長らく教育や環境や「遺産」の影響の中で、性別役割分業の幻想に絡め取られ、力を奪われてきた。生活を大切にできなかったこと、自分の中心に置けなかった長い年月を繰り返し悼む。
しかし、たくさんの努力の末に、生活を自分の手に取り戻すことができたことを今は祝福している。生活という土台から、自分の人生を生きている。そして、子どもが子どもでいるあと少しの期間、手渡せるものについて日々考えている。
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この記事に書いたことは、「作り手と食べ手をつなぐ場づくり」にわかりやすくは結びつかないかもしれない。しかし、「食」について語るときに、わたしは「生活の中の食」としてしか取り扱うことができない。そして、まずは「生活」について語る必要があった。
これを読んだ方へ。
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