スポーツは勇気だ
この記事は学びのシェア会出版プロジェクト「きみがつくる、きみがみつける社会のトリセツ」の一環で執筆しました。
中学生のとき、国語の先生で、学生の頃にラグビーをやっていたという人が担任だったことがある。
夏のある日のホームルームで、彼が突然してきた話が衝撃だった。
「お願いがあります。思春期の男子はムラムラして大変だから、制服のシャツに透けるような色のついたブラジャーをつけないで。白であってもタンクトップを着て、目立たないようにしてあげてください」
「してあげて??なんでうちらが??」という理不尽さへの抵抗がわいたのと、先生に性的な目で見られていたのかと思うとものすごく気持ち悪くなって、それ以来、大嫌いになった。まぁ確かに、白いシャツにどピンクのブラジャーをしていた女子も全校に1人か2人いたけれども、そういうことは女の先生から「うまく」言ってもらいたかった。思春期といえば、女子だってそうなんだから。(というかそれ以前にいろいろ間違ってる)
でも、その先生が言っていたことで、一つだけ、今も印象に残っている言葉がある。この記事のタイトルにつけた、「スポーツは勇気だ」というもの。
どういう文脈だったか忘れてしまって、言葉だけを覚えている。
当時わたしは小学校でやっていた水泳を辞めて、何もスポーツをやっていなかった。体育の授業は、マット運動も跳び箱も平均台もハードル走も球技も、何をやっても難しくて、うまくできない。片や、なんでもこなせる「運動神経のいい」人がいて、同じチームになったりすると足を引っ張ってわたしのせいでボロ負けしたりするので、もういろいろ憂鬱だった。小学生の途中までは野山を駆け回る子どもだったのに、身体を動かすこと自体がどんどん嫌になっていった時期だった。
そういえば、そういうことを言っている人が、わたしの周りにものすごく多い。世代の問題か?画一的な指導をする時代だったということか?体育って何を教育する時間なのか?
今はどうなのかというと、息子の授業を参観したり、息子から話を聞いた限りでは、一斉に同じ種目に取り組んでも、一定の配慮はなされている感じはしている。体育の授業が嫌すぎて、スポーツ全般が嫌いになるというのは、本末転倒だよなぁ。
そうそう、だから、「スポーツは勇気」と言われても、その時のわたしはポカーン...というか、うっさいなぁという感じしかなかった。けれども、3年前から競技かるたを始めて、自分が臆病風に吹かれているときや、気持ちがくじけそうになったときに、ふとそのフレーズを思い出すことが多くなった。そして「ああ、そうだよなぁ、スポーツは勇気だ」という深い納得と共に、また攻めていこうと思える。いつもの自分の安心な領域を超える、自分から勇気を起こさないと、スポーツはおもしろくない。逆にスポーツによって、自分の勇気の大きさや勇敢さに気づかせてもらうことができる。
思えばあの頃の先生は、30歳になったかどうかぐらいの年齢で、今のわたしよりもずっと若かった。先生もあれやこれや手探りの中で、精一杯取り組みながら、自分も学びながら、先生になっている途中だったんだろう。そしてどれだけ未熟であったとしても、そのときは響く者がいるかどうかわからないようなこと、でも「今の自分として」「これだけは」と思うことを懸命に手渡してくれていたのだ。
わたしもまさか30年後に受け取るとは思っていなかった。
時間と場所を超えて、受け取る。
そう考えると、今わたしが一生懸命に「あなたに・あなたたちに」「これだけは」と手渡していることも、今は受け取られないかもしれないのは当然で。でも明日に役に立つかもしれない、10年後、20年後、30年後、あるいは死に際...受け取られることがあるかもしれないな。
中学生のときに響いた言葉をとっておいてくれて、ありがとう、わたし。