【ゲゲゲの鬼太郎(アニメ第6期)】
水木しげるの代表作にして、日本妖怪漫画の金字塔である同名漫画の(『墓場鬼太郎』を除いて)6度目のテレビアニメ化作品。「第57回ギャラクシー賞」テレビ部門特別賞受賞作品。
シリーズの中でも、原作のエピソードや妖怪達の設定を特に現代的な、かつやや暗いテーマに落とし込んだ作風が特徴。
妖怪と人間との心温まる交流エピソードもある一方で、従来のアニメ版では相当に非のある人間達をも妖怪の攻撃から守ってきた鬼太郎が、今回はやや人類から距離を置いていおり、「妖怪に対して悪逆な行為をなしたり、妖怪との約束を破った人間がそのまま祟り殺される」ようなバッドエンドを鬼太郎側も黙認して終わる回も少なくない。
例によってフェミニストに槍玉に挙げられたが、きっかけは放映終了後、下記の記事がYahoo!ニュースに転載されたことである。
この記事では本作のギャラクシー賞受賞を伝えるとともに、ファンの間で話題になった「ねこ娘」のデザイン刷新が取り上げられている。
従来のアニメ版では、ねこ娘は鬼太郎の外見年齢に合わせて、おおむね小学校高学年ぐらいの少女として描かれていた。それがこの第6期では鬼太郎よりかなり長身でスレンダーな「モデル体型」の美女となっている。
記事そのものはあくまで本作に好意的なものであるが、これをたまたま見つけて噛みついたのがフェミニストのタレント・エッセイストで「東京大学大学院情報学環客員研究員、昭和女子大学現代ビジネス研究所特別研究員、NPO法人キッズドアアドバイザー」である小島慶子。
その言い分は次のようなものであった。
彼女が作品どころか、自分でリンクしている記事すらろくに読んでいないのは明らかである。
ねこ娘がモデル体型なのは、彼女より年少の人間の少女「犬山まな」がレギュラーにいるがゆえの差別化だということが記事自体に書かれている。すなわち「いろんな体があっていい」ことと本作は何も矛盾しておらず、むしろ「いろんな体」のひとつがねこ娘のスタイルなのである。(そもそも昔ながらの容姿で登場し続けている砂かけ婆はどうなるのだ)
ちなみに前作にあたる第5期では、大人の美女である「ろくろ首」が準レギュラー出演しており、今作とは逆にねこ娘の方が年下の少女ポジションであった。遡って第3期では人間の少女「天童ユメコ」がレギュラー出演している関係で、対等の友人関係に近い立場を担っていた。
このように、ねこ娘というキャラクターはリメイクごとに、他のキャラクターとの関係を踏まえて様々なポジションで出演しているのであって、「モデル体型なんて許ない!ルッキズム!」といういかにもフェミニストらしい近視眼的かつ脊髄的な反射では、とうていその位置づけを捉えることはできないのである。
また、本作の製作陣が「子どもたちにルッキズムを刷り込む罪深さに考えが至っていない」などという批判も、間違いなく的外れである。
なぜなら本作には第15話「ずんべらの霊形手術」という、まさにルッキズムに苦しむ、容姿に恵まれなかった少女の物語が存在するからだ。
(第15話『ずんべらの霊形手術』より)
この話は、醜かった少女がルッキズムそのものの重圧と、それとは逆の「ルッキズムにとらわれるな」という倫理の押し付けの板挟みに遭い、最後に自分自身の選択をするというエピソードであり、アニメの美少女と見るや脊髄反射でバッシングするしかできないフェミニズムの短絡性をはるかに超越した物語性を持っている。全体でも非常に評価の高い回だ。
ここでもまた、ポリコレやフェミニズムの「いっちょがみのクレーム」如きがいかに、プロのクリエイターの真摯な工夫と作劇に足元にも及ばないかという現実の力の差が見て取れるのである。
さらに言えば小島慶子自身が、自分は水着写真集を出しておきながらねこ娘をバッシングしていることを批判されている。このように自分が若い時には水着やヌードで仕事を求めておいて、後になって他のクリエイターの仕事を「ルッキズム」、【性的消費】、【性的搾取】などと攻撃するのは、芸能人くずれのフェミニストに多いパターンである。
もちろん、小島氏の主張はまたも的外れである。
彼女は水着姿を発表したことそのものを批判されているのではない。自分がやっておきながら他人のモデル体型に言い掛かりをつける矛盾を指摘されているのである。
また、次のような未履修者による援護も見られた。
男のキャラクターはイケメン化しないのに、女性だけがモデル体型にされるのがおかしいという。ではこれを見て頂こう。
鬼太郎ではない。本作の回想シーンに登場する目玉のおやじの若かりし頃の姿である。だから「○○がない」と想像で言うなと。
要するに本作におけるバッシングのまずさは、作品を知らずに批判していることから生まれている。
批判するならするで、そう思ってから少しでも内容を視聴するなり、最低限文字情報だけでも調べればよかったのである。小島氏にしても援護したフェミニスト達にしても、誰ひとりそうした、実際に作品内容を検討した上での批判ができていない。これは「学者」や「インフルエンサー」とされるフェミニストが発言した場合でも同様である。訂正は常にフェミニズムの批判者側から発生している。
フェミニズムによるバッシングというのは毎回そうである。事実確認をする役割の者が内部にいない。いつも自分達は何もせずに「たまたま見えた」断片的な情報だけにとらわれて、その見えている世界をすべてだと思い込んでヒステリーに走っている。幾多の「炎上」例をみても、フェミニズムという業界全体がそうなのである。
そんな彼女らに、本作のキャッチフレーズともなっているこの言葉を送りたい。
「見えてる世界が、すべてじゃない。」
参考リンク・資料:
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