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「白銀の輪舞」第四章「鬼」


 第四章 「鬼」


 鋭次郎が目覚めた翌日――四月一日の夕方、彼は早くも退院した。

 独身寮の自室で外泊する準備を整えると、腰を下ろす間も無く、守嶺家との待ち合わせ場所へ向かう。この間、誰とも会話を交わさなかった。

 今回の事件や捜査活動に関しては、たとえ相手が交番の上司や同僚の警察官であろうと、絶対に情報を漏らさないよう、本部長から厳命を受けていた。特に『鬼』や『守嶺家』『結界』といった言葉は、トップシークレットとのことである。

 もっとも彼自身、詳しい情報はほとんど教えてもらっていない。

 鬼が消えた後、守嶺家のふたりはすぐにどこかへ行ってしまったし、本部長とは今朝、電話でコンタクトを取ったが「詳しい話は守嶺家に聞け」の一点張りだった。鋭次郎を特命刑事に任命しておきながら、自分自身はこの件と関わり合いになりたくない本音が、明白に感じられた。

 午後八時。鋭次郎が寮を出て、大通り沿いの歩道を歩いていると、曇天から大粒の雪が舞い降りて来た。もう四月だというのに、街路樹やビルの陰などあちこちに積もった雪は、まだ溶ける気配が無い。

 雪国でもあるまいし、南国と言われる九州で四月に入っても雪が降っているのは、かなり珍しい。

『今年はまだ、雪が降ってるんですよ!』と明るく言った、看護師の顔が浮かぶ。

 一見して十七、八才には見えない大人びた雰囲気だったが、そう言えば、はしゃいだあの笑顔は可愛らしく、年相応に見えた。

 鋭次郎は白い息を吐いて夜道を歩きながら、革ジャンの肩に食い込むボストンバッグを、いつも以上に重く感じていた。体はまだ本調子ではないけれど、今夜からすぐに任務に入らなければならない。守嶺家から指定された待ち合わせ場所は、そう遠い所ではない。タクシーを使おうかとも思ったが、リハビリがてら歩いて行くことにする。歩きながら、考えたいこともあった。

 本部長曰く「事は急を要する」とのこと。

 あの恐ろしい鬼が、まだこの街のどこかに潜んでいるとしたら確かに大変なことだ。

 一方、鋭次郎は『鬼』が実在することについて、正直まだ半信半疑だった。自分自身の目で見ていながら――あまりにも現実離れした状況過ぎて、全てを受け入れられないでいた。

 伝説の鬼、大羅刹『號羅童子』。

 鬼を狩る一族、『守嶺家』。

 そんな者たちが、本当に存在しているというのだろうか。まるでファンタジーそのものではないか。

 新しく自分に芽生えたという『霊感』にしても、あの日以来、特に目立った感覚は無い。

 病室で見えた青い光は、結界の光などではなく、何かの錯覚、勘違いではないのか。

 それとも巧妙なトリック? 壮大な作り話?

 だが鋭次郎の腕や足首には、鬼に掴まれた痣と痛みが、はっきりと残っていた。幸い骨折まではしていないが、これはまさしく現実の痛みだ。

 やはり昨夜の出来事は本当に起こったのだ。

 ――では、守嶺家のふたりは?

 九字を切って結界を作り、巨大な鬼を素手で押さえ込んだ『華多岡』という長身の美女。

 鬼を凍気で封印した『守嶺家のお嬢様』こと、魅雪。彼女がひと睨みしただけで病室の温度が急激に下がり、床に氷が張ってダイヤモンドダストがきらめいた。

 雪のような白い肌に、黒い髪。あれはまるで、まるで……。

 鋭次郎は歩きながら首を振った。

 お伽話で実在するのは、『鬼』だけでもう十分だ。

 それにしても、あのお嬢様と看護師。同一人物に間違いないが、何故あんなに性格が違うんだろう。朗らかで人懐こい性格と、クールで人を寄せ付けない性格。両極端過ぎる。どちらが本当の彼女なんだろうか。

 鋭次郎が気を失う間際に脳裏に浮かんだ、幼い少女との関係は――。

 看護師に子供の頃のことを聞こうとしたら、明らかに表情が変わっていた。

 何か理由がある筈だ。一体、何が?

 魅雪は何故、鬼に鋭次郎のことを「知らない」と言ったのだろう。鋭次郎のことに、気づいていないのか?

 ――いや。

 鋭次郎は足を止めた。

 路地裏で死にかけている時、「鋭次郎くん」と呼びかけた声。あれは確かに、看護師の……魅雪の声だった。

 ――彼女は、俺のことを知っている。分かっていて助けたんだ。

 では何故、後になって自分のことを冷たく突き放すのだろう。その理由がさっぱり分からない。

 ――だけど、俺は……。

 今、鋭次郎は自分の心が高揚していることを、はっきりと自覚していた。

 警察官になって以来、毎日同じことの繰り返しの中で、鋭次郎は人生の目的を見失っていたのかもしれない。皮肉なことに死にそうな目に遭うことで、逆に生の実感や、いつの間にか胸の片隅に埋没していた『冒険心』のようなものが蘇ってきていた。

 鋭次郎は駆け出しそうになる気持ちを抑え、アスファルトを力強く踏みしめるように歩いた。牡丹雪がまとわりついてきたが、全く気にならなかった。

「きゃっ!」

「あ、すみません!」

 考え事をしながら歩いたせいで、正面から女子高生にぶつかってしまった。

「ごめんね、大丈夫だった?」

 落とした学生カバンと携帯型の音楽プレーヤーを鋭次郎が拾いあげると、女の子がペコリと頭を下げた。ピンクのマフラーに、尖ったあごが埋まる。両サイドを三つ編みにしている。全体的に華奢で小作りな顔立ちの子だ。

「大丈夫です。あたしもちょっと音楽に夢中になってて……ごめんなさい」

 プレーヤーのヘッドフォンからは、ハードロックの激しいドラムのリズムが洩れていた。ちょっと女の子とはイメージが合わないジャンルの音楽だった。

 だが一見いかにも大人しそうな子が、意外と激しい情熱を胸に秘めていたりするものだ。人は見た目では分からない。

 県警本部長が、実は鬼だったりするようなもので……。

 ――考えすぎだ。

 鋭次郎は苦笑いを浮かべた。人間不信になりかけているのかもしれない。

「ロックが好きなんだね」

 女の子ははにかんだ微笑を浮かべ、小走りに去って行った。腕時計を見ると、もう九時前だ。塾の帰りだろうか。

 鋭次郎の耳にはまだ、少女のヘッドフォンステレオから聞こえたロックのリズムが残っている。その小さな背中が遠ざかるのを見送り、反対方向に歩き出した刹那、嫌な予感がした。

 振り返ると、派手なダウンジャケットを着込んだ茶髪の少年たちが女の子の後ろを追いかけて行くのが見えた。全部で四人。その中のひとりは際立って大柄で、強く目を引いた。

 鋭次郎の胸の奥で何かがざわめき、「気をつけろ」と警報を鳴らしている。額の古傷が疼く様な感覚も蘇った。

 あの時と……本部長の偽者が病室に現れたときと、同じ感覚である。

 女の子が路地に曲がると、少年たちも姿を消した。鋭次郎は急いで引き返し、ビルの角に隠れて様子を窺った。

 路地の突き当たりで、女の子が少年たちに囲まれている。

「残念でした、行き止まりー」

「バカじゃね? 逃げんなら、反対方向だろうがよ。わざわざ暗い方に来んなよ」

「ていうかコイツ、俺たちを誘ってンじゃねーの!?」

「マジか」

「ねえねえ! 楽しいことしようよー」

 少女が期待した以上に可愛かったこともあり、少年たちは興奮して口々に囃し立てた。

「なあ、チューしよっ!」

 薄暗い街灯の下、女の子を大柄な少年が抱きすくめる。

「やめてください!」

「ぎゃははっ」

 怯える女の子が不良少年を必死で押し返そうとするのを、他の少年たちは下品な高笑いをして見ている。

「ケータイで写真撮ろーぜ!」

「お前、手を押さえてろ」

「オッケー」

「いやあっ!」

 ――やれやれ。特命を受けてるっていうのに。

 鋭次郎は溜息をついた。だけどこいつらには、キツイお仕置きが必要だ。

 だが、鋭次郎がビル陰から飛び出そうとした時、短い悲鳴が聞こえた。

「うあっ!?」

 少年の悲鳴だった。

「あははははははっ!」

 女の子が大声で笑いながら、一番大柄な少年を片手で軽々と持ち上げ、仲間たちに投げつけた。

「うわわっ!」

 少年たちはアスファルトの上に折り重なって転がり、呆然と女の子を見上げた。

「あたし、わざとこっちに来たの」

 少女は小さな舌を出して、ゆっくりと唇を舐めまわした。

「馬鹿はそっち!」

 その口が一瞬にして耳まで裂け、尖った歯が覗いた。次いで、瞳が血のような赤色に変わり、街灯を反射してぬめぬめと光った。

「……っ!?」

 少年たちが声にならない悲鳴を上げる。

 ――鬼だ!

 鋭次郎は戦慄した。

 あの大きな少年じゃなくて、少女の方が鬼だったとは。とんだ見当違いだ。

 鋭次郎は革ジャンの胸元から回転式拳銃を取り出した。ビルの陰から飛び出し、少年たちの前へ走り込んで叫ぶ。

「早く逃げろ!」

「あら」

 セーラー服の鬼は、拳銃を手にした鋭次郎を見てニンマリと笑った。

「桂木巡査じゃない。戻って来ちゃったの?」

 全身に鳥肌が立った。

 少女とぶつかった時は、鬼が憑依していることなど全く気がつかなかった。どうやら自分の霊能力とやらは、万能ではないらしい。

 拳銃を慎重に構えながら、生唾を飲み込む。見た目は小さいが、中身はあの『號羅童子』だ。この小柄な体に猛烈なパワーを秘めている筈だ。油断は禁物である。

「……さっきぶつかった時はせっかく見逃してアゲタんだから、邪魔しないでネ」

 少女が大きな口で嘲るように言った。

 否、もう少女の声ではない。野太い、男のような声に変わっていた。昨夜の鬼と同じで、ところどころで声が裏返る独特のアクセントである。口調が少女のままなのは、取り憑いた宿主の影響なのだろうか。

「今カラ、ソノ馬鹿なヤンキーたちヲ、アタシがコラシメテやるンだから……」

 女子高生の肌が灰色に変わり、二本の角が額に現れた。周辺の空気がじっとりと湿気を含み、どんよりと重くなる。空気は湿っているのに、鋭次郎の口の中は、緊張でカラカラに乾いていた。

「ソイツらは、今からアタシが、食べるんだカラ……どうせ世の中のゴミみたいなモノナンだから、イイよね????」

 涎を垂らしながら、セーラー服を着た怪物がイヒヒヒヒと笑う。

 背後から、少年達の震えるような悲鳴が聞こえてきた。

「何やってる!? 早く逃げろ!」

 鋭次郎が拳銃を鬼に向けたまま振り返って叫ぶと、少年のひとりが半泣きになりながら答える

「だって、だってこいつ、立てなくなっちゃって……」

 そう言う少年も、ズボンの前を黒々と濡らしている。

「馬鹿野郎! お前らが肩を貸して連れて行け!」

「は、はい!」

 不良少年たちは、アスファルトにしゃがみ込んだ大柄な仲間を抱え上げ、こけつまろびつ逃げていく。

「待チなヨ……!」

「駄目だ!」

 追いかけようとする鬼の前に、鋭次郎は拳銃を構えて立ちふさがった。少女の三つ編みの髪はほどけ、髪の毛一本一本が蛇のようにユラユラ蠢いている。少年たちの足音が遠ざかっていくのを、鋭次郎は背中で聞いた。

「あーあ、逃げちゃっタ。アンタ、間が悪過ぎ。せっかく三百年ぶりにニンゲンを食べようとオモッタノニ……」

 鬼が恨めしげに呟いた。

「ナンデ邪魔する訳? バカヤンキーが減るンダカラ街も平和になるし、アンタを食べようッテんジャナイんだから別にイイでしょ」

「そうはいかない」

 鋭次郎は拳銃のグリップを握り締めて言った。

「三百年ぶりだか何だかしらないけど……人間を食べるなんて、俺たち警察が許さない」

「けいさつ? ピストルなんかモッチャッテ……」

 鬼は両手で自分を抱きしめた。

「イやアン怖い!」

 口から大量の涎をこぼし、低い声で叫ぶ。

「怖いコワイ!」

「……」

 鬼が言葉通りに拳銃を怖がってないのは、明らかだった。耳まで裂けた口に嘲笑を浮かべ、拳銃と鋭次郎の顔をゆっくりと見比べている。

 昨夜、鬼が巨漢に取り憑いていた時は非常に臆病な態度で、しきりに「拳銃が怖い」と言っていた。逆に今夜は、拳銃に脅える様子が全く無い。

 ――何考えてやがんだ……?

 鬼の心理など分かる筈もなく、ただただ不気味である。

 鋭次郎は、自分の構えたピストルの銃口がピタリと安定し、少しも震えていないことを確認した。両手の中の金属の重みを感じながら、ゆっくりと劇鉄を起こす。

 ――大丈夫だ。今夜の俺は、落ち着いてる。

 戦争体験のある祖父が生前、「敵の飛行機がどんなにたくさん飛んできても、小銃さえ握っていれば、全然怖くなかった」と話していた。きっと同じ心理なのだろう。

 だがそもそも鬼相手に、拳銃が武器としての意味を持つのだろうか?

 一方、鋭次郎は深刻な事実にも気づいていた。

 ――こいつが今取り憑いているのは、多分ただの女子高生だ。

 鬼を狙撃することで、宿主である女の子の体を傷付けてしまう可能性がある。いわば、少女を人質に取られてしまったようなものだ。

 拳銃の存在は頼もしいが、簡単に発砲する訳にはいかない。

「ね、拳銃のタマって美味しいのかしラ」

「!」

 鬼が無造作に足を踏み出した瞬間、鋭次郎は反射的に引き金を引いてしまった。

 ビルの谷間に乾いた銃声が響き、彼は鬼の左足に丸い穴が開くのを見た。

「きゃーっ!」

 鬼が甲高い叫び声を上げ、足首を抑えてうずくまった。

「え……?」

「うわああああああ、痛いよう……!」

 鬼独特の灰色の肌も、蛇のように蠢いていた髪の毛も、魔法のように元の女子高生のものに戻っていた。

「痛いよう! 痛いよう……!」

 呆然とする鋭次郎の前で、少女は両目から涙をポロポロこぼしながら泣きじゃくっている。左足の白いソックスが、見る見る血の赤に染まっていく。

 女子高生の泣き声が鋭次郎の耳に突き刺さる。

「まさか……」

 涙と洟でぐしゃぐしゃになった少女の表情のどこにも、あのふてぶてしい鬼の面影は無かった。誰がどう見ても、ただの十代の女の子だ。確かに今、少女の人格は少女自身であり、あの恐ろしい鬼などではあり得なかった。

 拳銃で撃たれた瞬間、憑依していた鬼が少女から離れたとでもいうのだろうか?

 ともかく、少女の足首の出血がひどい。早く止血しなければならない。

「君は……」

「いやっ!」

 話しかけた鋭次郎を見て、女子高生が怯えた目で叫んだ。

「もう撃たないで! 殺さないで!」 

「大丈夫……」

 鋭次郎は、拳銃をゆっくり足下の道路に置いた。

「僕は警察官だ。これは何かの間違いなんだ。誤って君の足に当たってしまった……もう絶対、ピストルは撃たないから」

 なるべく優しい声で話すよう努めながら警察手帳を開いて、自分の顔写真を少女に見せる。

「……本当に? お巡りさん?」

 女子高生が顔をそむけながら、思い切り横目で拳銃を凝視して訊ねた。

「うん」

 鋭次郎は深く頷き、ポケットからハンカチを出して少女の足元に跪く。

「約束するよ。さあ、早く止血をしないと……」

「うっ……!」

 赤く染まった足首の上を白いハンカチできつく縛ると、少女が呻き声を上げた。

「痛いっ! あたしが何をしたって言うんですか!? ……ひどいよっ!」

 少女が泣きながら鋭次郎を責める。

「ごめん……君を撃つつもりは、無かったんだ」

「うわあああああああん!」

 痛みが蘇ってきたのか、再び大声で泣き出す。

 ――まいった。

 鋭次郎は大きなショックを感じていた。訓練以外で発砲したのは、これが初めてだった。そして理由はどうあれ、一般市民を拳銃で撃ってしまったのだ。

 目の前で泣きじゃくる少女は、ほんの数分前まで恐ろしい鬼の姿だったとはとても思えない。灰色の肌、蛇のように蠢く髪の片鱗も無かった。色白で小柄な、どこにでもいるただの女子高生でしかない。

 一体この出来事を、どう判断すればいいのだろう。鋭次郎は途方に暮れてしまった。

 もはや自分自身の正気さえ疑われる。さっきの鬼は現実ではなく、幻だったのか? おかしいのは彼女ではなく、ひょっとして自分の精神の方なのではないか。

 しかし思い惑っている暇は無い。女の子を病院に運んで、怪我を治療するのが先決だ。

「ちょっと待ってて。今、助けを呼ぶから……」

 少女に背中を向け、ジーンズのポケットから携帯電話を取り出す。

 救急車、本部長、守嶺家の華多岡……どこへ一番先に連絡するべきか一瞬考え、すぐに119番をプッシュしようとしたところで、少女が呟いた。

「電話はイヤ……」

「え?」

 振り返ると、暗がりの中で少女の目が紅く光っていた。

 真っ赤な鮮血の様に、ぬらぬらと濡れて光る紅い瞳。

「どうしたの?」

 少女がにこやかに聞いた。乱れた長い髪が、涙と汗で頬に張り付いている。

「目が……」

 背中を氷の柱が貫いたようだった。

「目がどうしたの?」

 少女が紅い目で笑いながら鋭次郎の携帯に手を伸ばし、奪い取った。少女の華奢な手の中で、金属製のボディが粉々に砕ける。病院でインターホンを握りつぶした鬼の姿が、フラッシュバックする。

「電話はダメダヨ……ダレカ呼んダラ、桂木サンと遊ブ時間が、ナクナッチャウじゃん」

 微笑んだ少女の口が耳まで裂けるとともに、肌の色がどす黒くなり灰色に変わった。

「やっぱりお前は……」

 鋭次郎がよろめきながら立ち上がると、少女の姿の鬼も、足が痛そうな様子など微塵も見せずに軽やかに立ち上がった。

「ウフフフフ……いたいけナ女子高生を、ピストルで撃つダナンテ、非道いオマワリサン……けっこうサドっ気あるノネ」

 少女の額に小さな角が二本現れた。目がつり上がり、どんどん形相が人間離れしていく。周囲の空間が淀んだような歪みを生じ、白い火花が散る。

「お仕置きが必要ダ」 

 嘲笑を浮かべると鋭次郎の手を取り、勢い良く投げ飛ばした。

「うわっ!」

 鋭次郎はアスファルトの上を、丸いボールのように勢い良く転がった。受身を取り何とか立ち上がると、少女に取り憑いた鬼は十メートルも離れたところに嘲笑を浮かべて立っていた。

 見た目には華奢な体つきだが、投げ飛ばされた実感としては、病院で自分を襲った巨漢以上の怪力である。成人男性として決して小柄ではない鋭次郎の体を、まるでオモチャの人形を放り投げるような気楽さで投げ飛ばしたのだ。

 しかも、まだ遊び半分なのは間違いない。小さな体に、野生のヒグマのような底知れないパワーを隠し持っている。外見と中身のアンバランスさに鋭次郎は恐怖を覚え、全身に鳥肌が立った。

 ――これが鬼の力なのか――。

 心が敗北感に満たされ、全身のエネルギーが抜けてしまったような脱力感を覚えた。口の中がカラカラに渇き、眉間の古傷が疼くのを意識する。

 目の前の鬼が、決して常人の手に負えるような生易しい存在ではないことを痛感する。この化け物と対等に闘えるのは、唯一「鬼狩り」を生業とする守嶺家の人々だけなのだ。

 だが魅雪や華多岡の助けを呼ぼうにも、鋭次郎の携帯はすでに粉々の残骸と化している。自力で何とかするにしても、虎の子の拳銃も鬼の足元だ。

「きゃハハハハっ! 残念だったネ! 絶体絶命? 万事休ス!?」

 女子高生の制服を着た鬼が大笑いし、リボルヴァーを拾い上げた。撃鉄を起こし、銃口を鋭次郎に向けて、ゆっくりと近づいて来る。

「怖イ? ねえカツラギさん、怖イ?」

 病室で襲ってきた時と同じ質問だ。

「……」

 鋭次郎が黙っていると、鬼が怒りの形相で拳銃を自分の顔に向け、立て続けに残りの弾丸を発砲した。

 驚愕する鋭次郎の前で、鬼の顔に開いた四つの丸い穴から、逆さまの弾丸が押し出されてきて、次々と足元に落ちた。弾を吐き出した顔の穴は、一滴の血も流すことなく、何事も無かったかのように塞がった。やはり、拳銃は何の意味も持たなかったのだ。

「ホラ。見て見て! ツノガ二本アルでしょ?」

 鬼は、額を指差して言った。

「キノウよりも、ぱわーあっぷシタンダヨ。だからモウ、ぴすとる、コワく無いノ」

 地響きのような低い声で笑う。

「ソンじゃア。アタシのコトがコワいかドウカ、早ク答えテ。ドウ?」

「……」

 黙っている鋭次郎を鬼は紅い目で睨みつけた。

「アタシは気がミジかいノ……早くコタエナイト、殺すヨ?」

 鋭次郎は舌打ちして答えた。

「……だったら、俺の心を読めばいいじゃないか。お前は人の心が読めるんだろ?」

「ウーン……」

 鬼は頬に片手を当て、しばらく考え込んだ。

「ナンデダロ?」

「……?」

「昨日アンタを襲った時は、アンタの心って割ト覗きやすかったンダケド……今はヨク分かんないノヨネ」

 鬼は無造作に鋭次郎に近づくと、鋭次郎の目を覗き込んだ。

「ヒョットシテ桂木さん、アンタ『鍵』なんじゃ……でもヨワスギルよね」

 ――鍵?

 鬼は肩をすくめて見せた。

「まあイッか。どーせ頭をタベレバ、記憶は手に入るシ。便利デショ? 怖いでしょ?」

 鬼の髪が全て逆立ち、周囲に青白い稲光が走った。

「……ちょっとイライラしてキタ」

 体は小さいが、醸し出す異様な圧迫感は病室に現れた時以上だった。

「早くイイナヨ……アタシのコトがコワいッテ」

「怖くないね」

 鋭次郎は、なるべく素っ気無く聞こえるように言った。

「お前のコトなんか、全然怖くない」

「アラ……」

 女子高生の鬼は、弾装が空になった拳銃を放り投げ、おどけたポーズをとった。冷たい金属の音を立てて、拳銃がアスファルトに落下する。

「普通のニンゲンのくせに、鬼が怖くナイの?」

「怖いもんか」

 と言いつつ、鋭次郎は、いささか自嘲気味に考えた。

 ――怖いに決まってんだろ…… 

 鬼は、鋭次郎の表情をじっと窺っている。

 ――お前みたいな怪物を相手にして、怖くない奴がいるかよ。今すぐ大声で叫んで逃げ出したいさ。でも悔しいから、口が裂けても「怖い」なんて言わないけどな。俺は子供の頃から、痩せ我慢で意地っ張りなんだ。

 ――あれ……。

 鋭次郎は自分自身の思考に、軽い驚きを覚えた。

 そうだ。自分は、元来『痩せ我慢で意地っ張りな性格』だった。

 なのにいつの頃からか、あまり人と衝突しない、物事に拘らない性格に変わってしまっていたのだ。

 ――一体、いつからだろう?

「ア!」 

 鬼がポンと手を叩いた。

「ヒョットシテ、ヤセ我慢?」

 わくわくした雰囲気で鬼が聞いてくる。

「本当はスゴク怖イノ二、痩せ我慢で『怖くない』って言ッテルのネ?」

「さあね」

 心の中を言い当てられた鋭次郎は、殊更あっさりと返した。

「うふふ。痩せ我慢スル男ッテ、好き……」

 鬼の紅い目が、不吉な輝きを増した。

「オトコラシクテ強がりナ男が、ナブラレテるうちにダンダン耐えられなくなって、泣きナガラ命乞いスルのを見るノガ、モウ大好きなの」

 うっとりとした声で言う。最悪な趣味嗜好。サディスティックの極致だ。

 鋭次郎は心のそこからゲンナリした。

「スグニハ死ねないように、ユックリ苦しめてアゲル……逃ゲラレナイヨウニ、足から食べてアゲルネ! 次が両腕! 頭ハ最後!」

 鬼の言葉に何度目かの鳥肌が立つ。もちろん、本気でそうするつもりなのは間違いない。

「桂木サンッテ、ほーんと、オイシソウ」

 尖った歯の間から、蛇のように細く長い舌をチラチラと覗かせ、邪悪な微笑を浮かべる。口元から唾液が大量に溢れ、糸を引いて垂れた。何とも下品な眺めだ。鬼にとって鋭次郎は、まさに言葉通り、三百年ぶりにありつく食料でしかないのだ。

 だがもちろんこのまま黙って喰われるつもりはない。何とかして、この場を乗り切らなければ。

 拳銃を失い、絶体絶命の窮地にあっても、鋭次郎は意外なほど自分が冷静であることに気がついた。あるいは鬼との立て続けの遭遇で、恐怖に対する感覚そのものが、麻痺してしまったのかもしれない。

 拳銃は全弾発射してしまったが、鬼の後ろにある鋭次郎のボストンバッグには、折りたたみ式の警棒が入っている。今さら鬼相手に警棒が役に立つとも思えないが、無いよりはマシだろう。

 さて、どうやって鬼の後ろに回りこむか……?

 鬼の顔に嘲笑が浮かんだ。

「桂木サン。まだ何かシヨウト、たくらんでるノ? 心が読めなくてもソレクライナラ分かる。アンタ本当二面白いわ……でもやっぱりアタシ、気が短いミタイ……」

 瞬間、無表情になり、口を大きく開けた。そして。

「グオオオオオオおおっ!!!」

 鬼が突如、雄叫びを上げた。

 周辺の空気全てが震えるような、とてつもない音圧。鬼は叫びながら近くにあった道路標識に手を伸ばすと、鋼鉄製の柱を、まるでゴムのようにグニャリと曲げて見せた。

「ドウ? 絶望的ナ相手だってコトが、改めて分かったデショ?」

 耳まで裂けた口で、にっこりと笑う。感情の起伏が激しいのは、宿主が変わってパワーアップしても相変わらずのようだ。

「ユックリ、喰いコロシテアゲルね……」

 ――来るか。

 鋭次郎は襲撃に備え、左足を引いて半身の姿勢を取った。

 鬼が足を踏み出した、その時。

「なるほど……犬も歩けば棒に当たる。桂木様が歩けば鬼に当たる……という訳ですね」

 真後ろからの声に、鋭次郎は振り返った。

「華多岡さん!」

 薄暗い街灯の下、黒いコートを着た長身の華多岡と白いコートの魅雪が立っていた。

 緊急事態にもかかわらず、ふたりの立ち姿は映画のワンシーンのように絵になっていた。

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