見出し画像

「白銀の輪舞」第八章「青い夜」


 第八章 「青い夜」

 鋭次郎が腕時計のライトを点けると、すでに午前二時を過ぎていた。

 ひどく疲れているのに、頭が冴えて眠れない。

 六畳ほどの洋間には、ベッドと小さなライティング・デスクが置かれていた。壁もカーペットも、天井やカーテンまでが薄いブルーで統一されている。ベッドには清潔な、やはり青いシーツが敷かれていて、泊り客を迎える準備が完璧に整っていた。どうみても急ごしらえではない。どうやら華多岡は、最初からこの部屋に鋭次郎を泊めるつもりだったようだ。

 鋭次郎は電気を消した水色のベッドの上で、華多岡から聞いた話を、頭の中で何度も反芻していた。

 何故、彼女は自分のことを「大切なお客様」と呼んだのだろうか。

 一方、「何でも聞いてください」と口では言うが、気さくなように見えて近寄り難いところもあり、結局、話を聞けずじまいなこともあった。

 だが何とはなしに感じているのは、華多岡が鋭次郎を、それとなく魅雪に近づけようとしていることだ。

 ――一体何故、何の為に?

 ――魅雪さん……彼女は、どういう子なんだろう?

 伝統ある守嶺家の当主で、一族の中でも最強の力の持ち主ということだが……魅雪に関しては、華多岡以上に質問を投げかけにくい存在であった。

 鋭次郎より六つくらい年下のようだが、少女には常に張り詰めた糸のような緊張感があり、うかつな質問は許さない、凛とした気品も感じられた。

 鋭次郎は、リビングでピアノを弾いていた魅雪を思い起こした。鬼と闘う彼女はまるで戦の女神のように気高く美しいが、紅茶を愉しみながら無邪気に笑う彼女も、音楽を無心に奏でる姿も、それ以上に魅力的だった。

 ――明日は、あの子とふたりで街に出掛けるのか。

 華多岡の「お嬢様とデートしてください」という言葉を思い出し、頬が熱くなった。

「まいったな」

 思わず声に出してしまう。

 デートとはいっても、鬼狩りの為のカモフラージュだ。それでも胸が高鳴っている自分自身の感情には、気づかざるを得なかった。

 警察官拝命以来、ずっとストイックな生活を続けてきた。異性にときめいてしまったのは何年ぶりだろうか。

 ――一目惚れか? 

 鋭次郎は自問自答した。

 ――ただ単に、あの子が美しいからか?

 ――違う……もっと心の深いところで、俺は彼女に興味を抱いている。何て言うか、もっとこう運命的な……。

 鋭次郎は苦笑した。

 恋に落ちていく人間は、誰しもが『運命』を口にするものだ。

 もはや鋭次郎にとって、彼女が幼馴染であるのかどうかなど関係なくなっていた。彼は今はっきりと、守嶺魅雪というひとりの少女に魅かれ始めているのだった。

 たとえ彼女が『鬼狩り』をする特殊な一族の末裔で、怪異な定めを背負っている存在だとしても。

 もちろん、警察官が捜査の過程で恋心を抱くのはご法度である。

 ――それにあの子はまだ子どもだ。冷静になれよ鋭次郎。

 自分の心に歯止めをかけるべく、毛布を頭からすっぽり被ってみた。だが、やはりどうにも目が冴えて眠りにつくことが出来ない。頭の中では、魅雪が奏でていたピアノの即興曲が鳴り続けている。

 ベッドから立ち上がって青いスリッパを履き、窓辺へと歩く。

 カーテンの隙間から窓の外を見ると、外は広いベランダになっており雪が積もっていた。もう四月だというのに、冬は終わるそぶりも見せていない。

「!」

 ベランダに人がいるのに気づいて、鋭次郎の全身に緊張が走った。

 女のシルエット。

 暗くてよく見えないが、雪が降っているというのに、その女性は何も身に纏っていなかった。透き通るような肌は雪に負けないほど白い。厚い雲の隙間から満月が顔を覗かせ、女の顔を仄かに照らし出した。

 ――まさか!?

 魅雪だった。

 瞳は閉じている。鋭次郎が部屋の中から見ていることには気づいていないようだ。

 彼女は両手を広げ、舞い落ちる雪を受け止めるように天を仰いでいる。白い裸身は月明りの中で、まるで彫刻のように美しく切なく……鋭次郎はただ目を奪われていた。

 雪の降り方が一際激しくなり、長い黒髪がふわりと浮かび上がる。

 彼女が瞼を開けると……その瞳は、仄かに青い光を放っていた。

 結界と同じ、青い光。

 魅雪は両手を空中に差し伸べ、何かを抱き締めるようにして……両目から、幾筋も涙をこぼした。

 その涙に、鋭次郎は彼女が抱える計り知れないほどの深い孤独を感じ取った。

 流れた涙は、白い肌を転がりながら真珠のような氷の結晶となり、強い風に乗って何処かへと運ばれていく。

 風が強くなった。降りしきる雪が少女を中心に渦となり、白い柱となって再び天高く昇って行く。雪の柱が無くなると、少女の姿も消えていた。

 鋭次郎は静かに後ろに下がり、ベッドに腰掛けた。

 ――今のは、何だ?

 自分の眼で見た光景が頭の中で整理出来ない。心臓の鼓動が聞こえそうなほど早く打っている。

 鋭次郎はもう一度ベッドから起き上がり、窓へそっと近づいた。

 誰もいない。ベランダに何か変わった様子もない。ただしんしんと雪が降り続いているだけだ。

 ――幻か? 幻だったのか……?

 鋭次郎は頭を振った。

 違う。確かに彼女は、そこにいた。確かに、この目で見たのだ。この世のものとは思えない、美しく孤独な光景がまだ目に焼きついている。

 鋭次郎はベッドに潜り込んだ。

 ――子供の頃から厳しい修行をして、秘法を身につけただって?

 それどころじゃない。あの姿はまるで……。

 もうひとつ、感じたことがあった。

 ――遠い昔、同じような瞬間に立ち会ったような気がする。

 それは、いつ、どこで……?

 思い出せなかった。

 やはり錯覚か。幻なのか。

 だが……。

 鋭次郎の頭の中に、彼女の様々な姿が浮かんだ。

 雪と戯れる彼女。

 鬼と闘う彼女。

 笑う彼女。

 怒る彼女。

 涙を流す彼女。

 白いコートの彼女。

 カッターシャツの彼女。

 ピアノを弾く彼女。

 看護師姿の彼女。

 琥珀色の瞳。

 青く光る瞳。

 そして。

 彼女に良く似た、幼い少女の顔。

 同じ映像が、何度も何度も繰り返し頭に浮かんでは消える。

 目を閉じた瞼の裏の暗闇に、現実と同じくらいの鮮やかさで様々な彼女が微笑み、泣いている。

 不意に、魅雪が心の裡に抱える孤独な想いが伝わってきて、鋭次郎は胸が苦しくなった。

 繰り返し、繰り返し。

 そしてまた、繰り返し――。

 数十回、数百回にわたるイメージの繰り返しの中で、いつしか鋭次郎は何か大切なことを思い出しかけていた。

 それは自分が子供の頃、雪原で見た風景の、記憶の断片。

 鋭次郎の意識は、深い夢の中へと落ちていく……。

 子供の頃、鋭次郎が東京から北国・白北ヶ峰の小学校に転校して来たのは、五年生の二学期のことだった。

 父が転勤族だったので鋭次郎にとって転校することには慣れっこだったが、それまで関東にしか住んだことがなかったので、北国独特の雰囲気……特に方言には、どうしても馴染むことが出来なかった。

 転校先は、飛騨山脈に連なる白北ヶ峰のふもとにある小さな小学校だった。転校生は滅多に来ないらしく、クラスメートたちは全員が幼馴染同士だった。

 鋭次郎が彼らに標準語で話しかけても、皆互いに顔を見合わせて笑うばかりで全く相手にしてもらえない。何度話しかけても、その繰り返しだった。

 今考えると、クラスメートたちに『差別』や『いじめ』の意識など殆んど無かったのだろう。彼らは、突如現れた「標準語で喋る東京の子」に戸惑い、どう接していいのか分からなかっただけだ。

 だが小学五年生の鋭次郎は、生まれて初めての孤独な経験に十分過ぎるほど傷ついていた。孤独な想いは、やがて理不尽な差別への怒りに変わっていった。

 そして負けず嫌いだった彼は転校先の小学校で新しい友だちを作ることを諦め、勉強に集中することにしたのだった。

 授業時間は積極的に手を上げて発言し、流暢な標準語で国語の教科書を朗読し、テストでは全科目で百点満点を取った。東京では毎日塾に通っていたのだから、大自然の中でのんびり育っている田舎の子たちより勉強が出来るのは、至極当然のことであった。

 クラスメートたちの鋭次郎を見る目つきは一ヶ月もしないうちに、珍しい動物を見る目から尊敬の眼差しへと変わった。

 その時が、クラスへ溶け込むチャンスだった。

 だが依怙地になっていた鋭次郎は心を開こうとはせず、話しかけられても冷ややかな標準語で返し、放課後は学校の図書室に直行して読書に埋没した。孤独感は増すばかりだったが、どうせ父の仕事の都合で、一年後に転校することは分かっていた。

 そんなある日のこと。

 たまたま訪れた公立の図書館で、鋭次郎は幼い女の子と出会った。

 きっかけは、ふたりが同じ本を借りようとしたことだった。

 瞳は琥珀色で髪がとても長く、雪のように肌が白い。いかにも高級そうな、ひらひらのレースがついたワンピースを着ている。

 女の子はきれいな標準語だった。まだ5才だが家のしつけが厳しく、なるべく標準語で喋るように育てられているとのことだった。

「あなたも標準語で喋るのね?」

 五才児とは思えない、居丈高な物言いだった。

「うん。東京から転校してきたから」

「ふうん。名前は?」

「え……桂木鋭次郎」

「わたしは魅雪よ。魅力的な雪って書くの。分かる?」

 鋭次郎が頷くと少女は腰に両手を当て、少年を上から下までジロジロ見て言った。

「東京の言葉を聞きたかったら、わたしに話しかけてもいいよ」

「ぷっ!」

 少女が自分に強い興味を抱いていることに気づいていたので、その不器用な誘い方に思わず吹き出してしまった。

「何よ!? 失礼ね!」

 鋭次郎は、ほっぺたを膨らませた顔も可愛いと思った。

 年齢が違っても、ふたりが意気投合するのにそれほど時間はかからなかった。鋭次郎は小学校で孤独な存在だったし、幼稚園に通っていない魅雪にとっては、鋭次郎が生まれて始めての友だちらしかった。

 少女は生まれつき体が弱くて、小学校に通うのも無理だと言っていた。勝ち気な性格も含めて十分元気そうに見えたけれど、ひょっとして色白なのは体が弱いせいだったのだろうか。そう言えば、時々悲しそうな顔をすることもあった。

 ふたりは毎日夕方になると図書館で会い、本の感想を話し合った。他にも勉強のこと、動物や自然のこと――白北ヶ峰から出たことがない少女は、鋭次郎が暮らした東京や色んな街の話を聞くのも好きだった。図書館が閉まると近くの山に登り、暗くなるまで話し込んだこともあった。

 秋も深まりつつある夕方、薄暗い山道をふたりで下りながら鋭次郎は聞いた。

「ずいぶん暗くなったけど、おうちの人心配しない?」

 少女は首を振った。

「わたしを本当に心配してくれるひとはいないから」

 その表情に、鋭次郎は頭を殴られるような衝撃を感じた。たった五才の幼児にはまるで似つかわしくない大人びた顔だったからだ。

 少女が相当な名家の跡取りだということは、色んなところで聞いていた。図書館や街中で、目つきの鋭いスーツ姿の大人たちが少女を目で追っているのを見かけることもあった。

 ――こんな山の中までは付いて来ていないだろうけど。

「それにわたしよりも強いひとって、この世には存在しないから」

「え?」

 少年の呆れた顔を見て、少女は吹き出した。

「まあ正直、魅雪ちゃんが学校に通えないほど体が弱そうな感じって、あんまりしないけど」

 鋭次郎は首を傾げた。

「お屋敷で空手か何か習ってんの?」

「バカね。生まれ持った能力の話よ!」

「は? 能力? 何それ」

 ポカンとする鋭次郎の背中を思い切り叩いて、少女は高らかに笑った。

「わたし、一族の中で『歴代最強』なんだって!」

 ――何故、今まで忘れてたんだろう?

 鋭次郎は傍観者の立場で夢を俯瞰しながら、考える。

 ――こんなに良い思い出なのに。

 ――それに……。

 鋭次郎は、もうひとつ大切なことを思い出そうとしていた。

 ――そうだ……。

 ――俺は思ったよりも早く、一年経たないうちに転校することになって、魅雪ちゃんと何かを約束したんだ。

 ――あの時、

 ――雪山で吹雪が起こって、

 ――広大な雪原を見下ろしながら、

 ――夜空にはオリオン座が輝いて……。

 ――額に、怪我をした。 

 ――そのとき、とても大切なことを魅雪ちゃんと約束した。

 ――そのとき、何かを見た。

 ――何を約束したのか?

 ――何を見たのか?

 もうずっと忘れていたのに、それはとてもとても大事なことで、どうしても思い出さなければいけないことのような気がした。

 記憶の断片は、暗い海に沈む夜光虫のように心の暗闇に静かに眠っている。

 思い出そうとすると、小さな光たちはすぐ手の届きそうなところまで浮かび上がって来ては、あともう少しのところで伸ばした指先を掠めて再び沈んで行く。

 鋭次郎は、暗闇に光るいくつかの小さな点を辛抱強く見つめ続ける。

 懸命に、手を伸ばす。

 あと少し。

 あともう少しで、この指先が届く。

 あとほんの少しで、思い出せる。

 あと、少し……。

 ……。

 ……。

 ……。

 やがて夜は白み、カーテンの隙間から朝の光が漏れ始めた。

 腕時計の針は六時を回っている。どうやら時間切れのようだ。

 鋭次郎は大きな溜息をついた。眠った筈なのに、一睡もせずに夜を明かした気分である。

 仕事柄、徹夜や睡眠不足には慣れているが、もやもやした気分を引きずったまま起床するのはやはりスッキリしない。

 だけど、思い出した。

 全ての記憶を取り戻すことは出来なかったが、魅雪とは幼い頃、確かに一度出会っていた。ふたりは幼馴染で、しかも親友同士だったのだ。

 そして魅雪は、そのことにきっと気づいている。

 ――でもどうして魅雪ちゃんは、俺に昔のことを話してこないのかな?

 まだまだ分からないことだらけだ。

「……起きるか……」

 再び溜息をつきながら半身を起こすと、ベッドの足元に華多岡が姿勢良く立っていた。

「○△×!?」

 人間あまり驚き過ぎると、とっさに言葉が出て来ないのは本当のようだ。

 硬直している鋭次郎を見て華多岡が笑みを浮かべ、美しい白い歯が覗いた。

「桂木様。おはようございます」

「お、おはようございます」

 華多岡は優雅に頭を下げた。

「素敵な朝でございますね」

「華多岡さん、いつからそこに……?」

 鋭次郎は、恐る恐る尋ねた。

「そうでございますね。桂木様が不意にベッドから起き出して窓の外を見た後、もう一度窓辺に行き、難しいお顔でベッドの中に潜り込んだ辺りからです」

「え……それじゃ、ほとんど一晩中じゃないですか!」

「そうなりますかしら?」

 華多岡は朗らかに笑った。

「すぐに声をおかけしようと思ったのですけれど、桂木様が独り言をおっしゃいながら、何か一生懸命、考えておいでのご様子だったので……これはお邪魔をしてはいけないと思いまして。ドアを開けて部屋を出ることもままならず、ずっと静かにしておりました」

 ――ていうか、いつの間に入ってきたんだ?

 鍛えぬいた体術により、忍者のような身のこなしが可能なのだろうか。

 ――漫画か。

 しかしここ数日、現実離れした体験のオンパレードなのであった。

「あの……全部、見てたんですか?」

「まあ、それなりに」

 彼女は会釈した。

 ――俺がカーテン越しに魅雪さんのような姿を見たことには、気づいてるんだろうか?

 鋭次郎は華多岡の顔をさりげなく見たが……その笑顔の奥に何があるのか、皆目見当がつかなかった。

「……あのう」

「……桂木様」

 沈黙の後、ふたり同時に話し出してしまう。

「桂木様、どうぞお話ください」

「いえ。華多岡さん、どうぞ」

「そうでございますか? では……桂木様、ご朝食の用意をいたしますので、その後はお嬢様との『デート』をどうぞよろしくお願いいたします」

「あの」

 一礼して立ち去ろうとした華多岡を、鋭次郎は呼び止めた。

「何か?」

「華多岡さんは、一緒に行かないんですか?」

「せっかくのデートをお邪魔するわけにはいきませんし。それにわたくし、日中は動けない体でございますから」

 昨夜も同じことを言っていた。

「あの、日中は動けないって、それはどういう?」

「……」

 華多岡は無言で窓辺へ歩き、カーテンを少し開けた。まぶしい朝日が部屋に射し込む。華多岡は黒いシャツの左袖をまくると、光の中に白い手を差し出した。手首には銀色のブレスレットをしている。

 すると、日光を浴びた左手が見る見るうちに赤くなり、沸騰するように音を立てて煮えたぎった。

「ぐっ……」

 華多岡の呻き声とともに、日に当たっている部分が黒く焼け焦げていく。

 鋭次郎はベッドから飛び起き、窓辺へ駆け寄ってカーテンを閉めた。

「大丈夫ですか!?」

 華多岡は、カーテンの前で左腕を抱え込むようにしてうずくまった。全身から脂汗を流している。

「ご覧の通り……わたくしは、太陽の下には出られない体、なのです」

 ボブカットの髪を乱し、荒い息をつきながら、途切れ途切れに言った。

「そんな……」

 鋭次郎は言葉を失った。

「守嶺一族は鬼と闘うために、古くから伝わる特殊な修行を受け――皆、自分自身の何かを犠牲にしているのです。わたくしは、鬼とわたり合える強靭な肉体と引き換えに、夜の世界にしか生きられない体になりました」

 部屋には肉が焦げる匂いが漂っている。

「どうしてそこまで……?」

「復讐の為です」

 彼女はきっぱりとした声で言った。

「復讐?」

 華多岡は焦げた左手を押さえながら、静かに言った。

「わたくしは元々、守嶺一族の出ではありません。大切な人を鬼に喰われたのがきっかけで、途中から加わったのです」

「え……」

 鋭次郎の全身を衝撃が貫いた。

「わたくしの恋人は桂木様と同じ警察官でした。ある日、同僚の警察官に鬼が取り憑いていることに気づき――そして彼はなす術も無く、わたくしの目の前で生きたまま鬼に喰われました。わたくしを助ける為に、自らを犠牲にして」

「そんな……」

「それからわたくしは『鬼狩りの噂』を聞いて守嶺一族を探し出し――志願して修行に入りました。守嶺は血と魂、双方の系譜。わたくしの様に外部から参加する者も時にはいるのです。そして私は鬼と闘う為に、昼の世界を捨てました」

 恋人を鬼に喰われ――鬼に復讐する体を手に入れるために、陽の光に当たることが出来なくなった女性。

 これが現実だというのか。

 そんなことが、本当にあり得るのだろうか。

「五年後、わたくしはついに仇の鬼を探し出しました。そいつは目の前でわたくしの最愛の人の姿になり、彼の声で話しかけました。守嶺の戦士となったわたくしを動揺させ、苦しめ、それを見て愉しむ為です」

「……」

「わたくしは構わずこの手で、その鬼を八つ裂きにしてやりました」

 華多岡は熱にうかされたように、薄笑いを浮かべて言った。

「油断し、人間を舐め切った鬼を倒すのは誠に容易いことでした。そいつの悲鳴、封印する間際の許しを請う声……最高の瞬間でしたよ」

 彼女は火傷を負った左手を掲げた。銀のブレスレットが重たげに揺れる。

「そいつを封印した後も、わたくしは鬼狩りを続けています。もうこれ以上、ひとりも犠牲者を出さない為に。憎い鬼どもを狩る為なら、夜の世界にしか生きられないことなど、わたくしにとっては何と言うこともありません」

「……」

 あまりにも凄絶な彼女の体験談に、鋭次郎は言葉も無かった。

 ――だけど。

 ――なら、守嶺魅雪は?

 ――あの子も、『何か』を犠牲にしているというのだろうか?

 華多岡が左手をかばいながら立ち上がり、鋭次郎の心を読んだかのように言った。

「魅雪お嬢様は守嶺家ご当主として、一族の誰よりも『厳しい定め』を背負っていらっしゃいます」

 鋭次郎は息を呑んだ。

 目の前で痛みに耐えている華多岡よりも、さらに厳しい定めがあるというのか。

「桂木様」

「はい」

「お嬢様からは口止めされていましたが……わたくしの判断で、勝手にお伝えします」

「なんでしょうか」

 口止め、とは。

「お嬢様の右手の包帯。あれは二ヶ月前、貴方様をお救いしたときの傷なのです」

「え……?」

「お嬢様は、戦闘中に自らの凍気を抑えて止血に当たった為、桂木様の体温で、いわば『火傷』をしてしまったのです。お嬢様は口ではあの通りですが……わたくしの前では、桂木様をお救い出来たことを大層喜んでおられました」

 鋭次郎は、看護師姿で微笑む魅雪の姿を思い浮かべた。

「桂木様……」

 華多岡は琥珀色の目で、鋭次郎を真っ直ぐ見つめた。

「お嬢様は守嶺家当主であられるその前に、天邪鬼で少しばかり臆病な、ひとりの女の子であることをどうか忘れないで頂きたいのです」

 鋭次郎の脳裏に、闇の中で踊る魅雪の白い肌と、青く光る目が浮かんだ。

「何故僕にそんなことを……」

「いま、このとき。貴方様だからこそ、なのです。どうぞ、ひとりの女性としてのお嬢様と、素直なお気持ちで向き合ってください」

 鋭次郎は戸惑いながらも、華多岡の真摯な眼差しに頷くしかなかった。

「……はい」

「ありがとうございます。それと……桂木様は、少し似ています」

「え?」

 誰に、とは聞けなかった。

 華多岡は黒いシャツの左袖を伸ばすと、何事も無かったかのように、爽やかな笑顔を見せた。

「では、朝食のご用意を」


…………………………………………………………………………………………..


いかがでしたか?
だんだん主人公ふたりの関係が明らかになってきました。
さあ、魅雪は何故いま、彼に会いに来たのでしょうか???

ところで、今回のイラストはclubhouseを聴きながら描きました。

声優の皆さんが「声優ぶつかり稽古」と題して、毎週土曜日の夜10時から自主練をされているのですが、なんと2月はこの作品をテキストにしてくださっているのです。

本になっていない未発表小説ですが、なんと幸せな作品なのでしょうか。ありがたいことです^_^

機会をくださった天神英貴さんに感謝!




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?