「白銀の輪舞」第十四章「あいしてる」①
第十四章 「あいしてる」
それからどれくらいの時間、どこをどう歩き回ったのか、鋭次郎は、自分でもよく分からない。
長い長い終わりの無い悪夢の中を、当ても無く彷徨っているような感覚……。日常は破壊され、世界の全てが悪意に満ちて感じられた。ただ號羅童子を見つけ、倒すことだけを考えて、歩きつかれて棒のようになった足を、ひたすら前へ動かす。
革ジャンの右ポケットには、魅雪から貰ったペンダントが入っている。彼は時々ポケットに手を突っ込み、その存在を確かめた。
鋭次郎の両手は凍傷で赤黒くただれていたが、痛みなど全く気にならなかった。いや、むしろこの痛みは、少女と自分とをつなぐ大切な絆と思えた。
とてもとても、愛しい痛み。
少女は、このペンダントを絶対に失くすな、と自分に言った。昔、大切な友達にもらった宝物だからと。
――大切な友達って、誰だろう?
そこには、一体どんなドラマがあったのだろう?
――魅雪ちゃん。君ともっと話したかった。君がどんな定めを持っていようが、ひょっとして君が人間で無かろうが、そんなことはどうでも良かった。
――俺は君を守りたかった。君の力になりたかった。俺は君を守れなかった。君の力になれなかった。俺は君が。俺は君と……。
粉雪の中を歩きながら、彼は何度も何度も、同じ事を繰り返し考えていた。
気がつくと、小さなライブハウスの前に立っていた。
入り口には、『滝沢キョウイチ』のポスター。今夜、魅雪とふたりで聞きにくる筈だったライブだ。彼は吸い込まれるように、ライブハウスへ通じる狭い階段を登っていった。
会場は、街が生んだ新しいスターを祝福する熱気に溢れていた。二百ほどの客席は、すでにほぼ満席である。もうすぐ四十才になるという滝沢の年齢もあり、客の年齢層は十代後半から四十代まで幅広い。
ステージの真ん中には、椅子の上に茶色いアコースティック・ギターが置かれ、照明を浴びて光っている。一番後ろの席に鋭次郎が座ると同時にブザーが鳴って、客電が落ちた。
ステージにサングラスの痩せた男が現れると、客席から一斉に拍手と歓声が送られる。
――あれが、滝沢キョウイチ。あの夜、俺と魅雪ちゃんが歌声を聴いた……。
滝沢は客席の大きな反応に少し驚いたような顔を見せ、深々と一礼した。椅子の上のギターを手に取り、腰掛ける。マイクスタンドの角度を自分の口元に合わせると、おもむろにギターを爪弾き出した。
「歌います……運命」
拍手が沸き起こり、滝沢キョウイチは拍手が鳴り止むのを待って歌いだした。会場の隅々まで響き渡る、ハイトーン・ヴォイス。
幼いふたり 出会ったのは何故
運命が 俺たちを引き寄せた
君は泣いていた 寂しいって
心が泣いていた 俺には聞こえた
白い雪が降る
いくら話しても 話し足りない
白い雪が降り積もる
風が吹き抜けて
白い雪が降り積もる
俺たちは 別れていく
出会ったのは 別れる為なの
でもいつか 会いに行く
きっと雪は いまも降り続けてる
忘れない 忘れない……
忘れない 忘れない……
リフレインを聴きながら、鋭次郎の両目から、涙がポロポロこぼれだした。
理屈じゃない。心の奥深くで、歌に共鳴する感情があった。どうしようもない懊悩が突き上げてきて、周囲の目も気にせず、彼は声を出して泣いた。
そのとき、滝沢のギターに当たった照明の光が反射し、鋭次郎の目に飛び込んできた。
視界が白い光に満たされ……。
鋭次郎の意識は、雪で覆われた懐かしい場所へと飛ばされて行く……。
十三年前――白北ヶ峰。
ふたりで作った、山の中の秘密基地。
生まれ持った強大な霊能力で、ブリザードを起こした少女……。
少女は電池式のランタンの光を浴びて、白い息を吐きながら言った。
「鋭次郎くん、わたしと約束してほしいの……」
少女の胸には、少年が誕生プレゼントに贈った銀色のペンダントが光っている。鋭次郎の母親の形見のペンダントだ。
「お願い、約束して」
「分かった。何でも約束するよ」
鋭次郎は、六才の少女の真剣な表情に気圧されながら、夢中で頷いた。
「でも、なにを……」
「わたしね、やっぱり、小学校には通えないの」
「うん。病気だから小学校には通えないだろうって、前から言ってたよね……」
――ひょっとして、僕と毎日秘密基地で遊んだりしたから、病気がひどくなったんだろうか?
「そうじゃなくて。本当はわたし……人間じゃ、なくなっちゃうの」
「え……」
少年はポカンとして、少女の琥珀色の瞳を見つめた。
「まさか、みゆきちゃん、本当に雪の妖精になっちゃうの……?」
少女は頷いた。
「うん。ちょっと違うけど、まあ、そんな感じ」
少年は興奮した。
「すごいや! 妖精なんてすごいよ!」
「でもね……」
少女の大きな目に、涙がいっぱい溜まった。
「わたしは、人間のままが、よかったの」
鋭次郎は、少女に何と言葉をかければいいのか分からなかった。
「もう、鋭次郎くんとお話ししたり、遊んだり出来なくなっちゃうから……」
「どうして!?」
少年は憤った。
「みゆきちゃんが人間でも妖精でも、そんなの関係ないじゃん! みゆきちゃんはみゆきちゃんだろ? 僕たち、ずっと友だちだろ?」
少女は涙をぽろぽろとこぼした。
「ありがとう、鋭次郎くん、本当にありがとう……」
「なんだよ……当たり前だろ?」
少年は、照れくささを隠すようにポケットからハンカチを出し、少女の涙を拭いてやった。
「でも……どうしても、妖精にならなきゃいけないの? それ、やめちゃいけないの?」
少女は頷いた。
「今から十三年後……わたしが十八才になる頃、恐ろしい鬼がこの世に蘇るんだって」
「鬼……?」
少年の想像を遥かに超えた話だった。
「わたしは、守嶺家の当主として、そいつを封印しなければならないの。だから、今からその為の修行に入るのよ」
「よし分かった、僕もその鬼と闘う」
少年は決意の目で言った。
「僕もみゆきちゃんと一緒に、修行するよ。で、どうすればいいんだい?」
魅雪は吹き出した。
「普通の人間の鋭次郎くんじゃ、無理なの」
「ちぇっ」
鋭次郎はむくれた。
「何だかずるいな。僕だってみゆきちゃんと戦いたいのに」
「その代わりね、鋭次郎くんは、わたしの『鍵』になってほしいの」
「鍵?」
「世界を滅ぼしかねない、強い強い敵と闘って封印する為には、わたしもそれに負けない、大きな技を身につけなければいけないわ……でも、何かの拍子にその技を使ってしまったら、大変なことになりかねない……だから普段は、その技に『呪文』という、鍵をかけて置くのよ」
「ふうん」
少年は、分かったような分からないような顔をして、頷いた。
「……とにかく僕は、その技の呪文を覚えればいいんだね?」
「そう。呪文は、簡単な言葉なんだけど、いざと言う時に、鋭次郎くんが唱えたときにだけ、効果を発揮するんだって」
「分かった」
少年は力強く頷いた。
「それからね、呪文はもうひとつあって……」
少女は、ひと呼吸置いて話し出す。
「鋭次郎くん、あのね。わたしたちの一族で跡継ぎに選ばれた者は、寿命が短くて……長くても、二十才くらいまでしか、生きられないの」
「え!? どうして?」
「エネルギーを使いはたしちゃうんだって……わたしのママも、ママのママも、そうだったの。十八才までしか生きられなかったって……」
「そんな……」
「わたしは死ぬとき、粉々になって、雪の結晶になるんだって……そしていつかまた、守嶺家の女として生まれてくるの」
「そんなに早く、みゆきちゃんが死んじゃうなんて……」
到底、現実味の無い話だったが、まるで陶器の人形のような少女が言うと、何だか信憑性があった。
「だけど、生まれ変わるには、条件があるの」
「なに!?」
「それはね、この世から消えてしまうときに、大好きなひとに『呪文』を言ってもらうことなの。『呪文』を言ってもらえれば、きっとまた生まれ変われるの」
「それが、ふたつ目の呪文か……」
「うん。そっちの呪文も、わたしが大好きな、鋭次郎くんにお願いしたいの」
少女は頬を赤らめて言った。もちろん、少年のほっぺたも真っ赤だ。
「分かった……ぼくも、その、みゆきちゃんが大好きだから……」
少女は、はにかんだ微笑を浮かべた。
「ありがとう……」
「だから僕に、呪文を教えて!」
鋭次郎は勢い込んで言った。
魅雪は両手を少年に差し出した。
「鋭次郎くん、わたしと手をつないで」
ふたりは、両手を握り合った。
少女は、ゆっくりと天空を仰いで、大きな声で言った。
「守嶺の誇りにかけて……この命、砕け散るまで闘う。名も無き戦士たちの霊よ、我が魂とともにあれ。我、今より、契約の儀式を行う」
鋭次郎は固唾を呑んで、まるで巫女のような少女を見守った。
「では、呪文を言うわ……いい?」
「う、うん」
少年は、決意を込めて頷いた。
「ひとつ目の呪文は……『わすれない』……よ。言ってみて」
「……わすれない」
「もういちど言って」
「わすれない!」
少女は微笑んだ。
「それから、ふたつ目の呪文は……」
少年は息を呑み、少女の言葉を待った。
「『あいしてる』……よ」
少女の色白の肌が、益々赤く染まった。
「さ、言ってみて」
「……あいしてる」
「もういちど言って」
「あいしてる!」
「もういちど……」
「僕は、絶対に、みゆきちゃんのことを忘れないし、愛してる!」
少年はお腹の底から、力いっぱい叫んだ。
急に強い風が吹いて、魅雪の長い髪を巻き上げた。
上空の雲は全て無くなって晴れ渡り、満天の星が広がった。大きなオリオン座が、ふたりを祝福するかのように輝いている。
「けいやく、かんりょうよ……」
少女が、静かに儀式の終わりを告げた。
琥珀色の瞳が、次第に青色に変わり、淡い光を放ち始めていた。それは図鑑で見た南極の氷のような、きれいな青い色だった。
「……みゆきちゃん……」
「これが、本当のわたし……」
少女は悲しそうな顔をしたが、その美しさに、少年はひたすら見とれていた。
「……鋭次郎くん、約束してくれて、ありがとう」
「なんだよ。お礼なんか言うなよ」
「でもね……もうすぐ鋭次郎くんは、わたしのことを忘れてしまうの……」
少女は、泣きそうな顔で言った。
「えっ!? なんで? 僕、絶対忘れないよ?」
「そういう、決まりだから……きょう、この山を降りたら、鋭次郎くんは、わたしのことも、わたしとお話ししたことも、いっしょに本を読んだり、お勉強したり、ハイキングに行ったりしたことも……全部忘れてしまうの」
「そんな……」
「呪文の力を強くするために、必要なことなんだって……でも、本当に鋭次郎くんがわたしの運命の人だったら……必ず思い出して、ふたりはもう一度、友だちになることが出来るんだって……」
「じゃあ大丈夫だ」
半べそをかいている少女に、少年は胸を張って見せた。
「この僕が、みゆきちゃんのことを思い出さないはずがないよ」
「鋭次郎くん……」
「僕は必ず、みゆきちゃんのことを思い出す。そして、みゆきちゃんに会いに来るよ。約束する……」
少女の笑顔が白く眩しく輝き、ステージの照明と重なった。ステージはもう、涙に滲んで、光の洪水にしか見えない。鋭次郎の眉間の古傷が、ズキズキと痛んだ。
――思い出した。全て思い出した。
自分は確かに、昔、守嶺魅雪と……みゆきちゃんと、呪文を約束していた。あの、懐かしい秘密基地で。『わすれない』『あいしてる』……って。
――なのに。
鋭次郎は、声をあげて泣いた。
――何が『わすれない』だ……肝心な時に、思い出さなかったじゃないか。
せっかく彼女の方から、会いに来てくれたのに。
――いよいよ彼女が消えてしまう時、俺はただ呆然として、見ていただけじゃないか!
彼女は、魅雪ちゃんは、きっと待っていた。
――俺が呪文を唱えるのを……『わすれない』『あいしてる』って。
――なのに、俺は……。
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