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「白銀の輪舞」第十三章「暗い海の底に」③

「……………………ッ!!!!!」

 目の前で號羅童子が、断末魔の叫び声を上げながら徐々に分解し、さらさらと粉雪のように舞い落ちていく。

 そして、最後に顔が残り――空中で、華多岡の顔に変わった。

「華多岡!」

「……お嬢、さ、ま……」

「華多岡……」

「これで、ミッションはコンプリート……さすがお嬢様、お見事です」

 忠実な従者は、ウインクをして見せた。

「うん……華多岡のおかげよ」

「勿体無い、お言葉。恐れ入ります」

「……お前からのメールに『親愛なるお嬢様へ』と書いてあった。あれは、昔ふたりで決めた別れの言葉……おかげで私は戦いに備えて、凍気を練り上げておくことが出来た」

 華多岡は琥珀色の瞳で魅雪を見つめ、ゆっくりと微笑んだ。

「親愛なるお嬢様……桂木様とお幸せ、に」

 華多岡の美しい顔に無数のひび割れが生じ、音を立てて一瞬で砕け散った。

「華多岡!」

 ――華多岡……。

 六才で修行に入ってから、ずっと一緒だった華多岡。

 色んな呪文や、格闘技を教えてくれた華多岡。

 つらい修行から、時々こっそり連れ出してくれた華多岡。

 ふたりっきりの誕生パーティーをしてくれた華多岡。

 アイリッシュティーを淹れてくれた華多岡。

 わたしと同じ瞳の色の華多岡。

 母親代わりだった華多岡。

 姉代わりだった華多岡。

 友達だった華多岡。

 わたしの従者、華多岡。

 最強の戦士、華多岡。

 華多岡。

 華多岡。

 華多岡……。

 さようなら、親愛なる華多岡……。

 飛び散った鬼の体は、水族館の薄暗い照明にきらめきながら粉雪のように舞い、床に降り積もった。封印は叶わなかったが、数億、数百億に分かれた號羅童子のかけらは、もう二度と再生することはないだろう。絶対零度の冷たさで、その魂までも砕いた筈だ。

 號羅童子と守嶺一族の数千年に及ぶ戦いが今、幕を閉じたのだった。

「う……」

 大量の凍気を放出した魅雪は力尽き、仰向けに倒れた。鬼と一緒に両手が砕け散ってしまったので、体を支えることが出来ない。

 ――鋭次郎くん、わたし、強羅童子に勝ったよ。

 ――両手が、無くなっちゃったけどね……。

 ――華多岡はあんなこと言うけど、ここにあなたがいなくて、良かった……な。

 水族館の黒い天井が見えた。

 少女の体からは、白い煙が昇り続けている。煙は天井付近で渦を巻き、時折、青白い稲妻を発しながら突風となり、館内を駆け回った。まるで吹雪の様だ。感情のままに全てを開放した凍気が、暴走を続けているのだ。

 見ると、スナメリの大きな水槽全体が、白く曇っていた。水が噴き出していた割れ目部分から、徐々に凍り始めているのだ。

 ――いけない……!

 このままでは、二頭のスナメリはもちろん、鋭次郎や女の子、水族館スタッフの命も危ない。暴走する凍気は、水族館の水全てを凍らせても、まだ止まらないだろう。そうなれば、ブリザードの被害は、この商業施設全体へと及んでしまう。

 その先は……。

 ――止めなきゃ……。

 ――何とかして、この冷気の放出を止めなければ……。

 魅雪は必死で、自分の中の暴力的な衝動を鎮めようとした。

 だが、一度目覚めた「怒り」という名の氷の竜は、その勢いを弱めるどころか、むしろ益々勢いを増して暴れまわろうとする。

 自分の中に、これほどまでの強い怒りと、諦めに似た想いが渦巻いていたことに、少女は愕然とした。理性と感情が完全に分離している。

 化け物女、という鬼の言葉を思い出して首を振る。

 ――まずいわ。何とかしなきゃ……。

 魅雪は目を閉じて祈った。

 ――華多岡、お前の力をもう一度貸して……。

 ――鋭次郎くん、あなたの力を、優しさをちょうだい……。

 ――どうか……。

 でも少女は祈りの中で、はっきりと悟ってしまった。

 ――無理、だ。

 この冷気の暴走を、もう自分自身では止めようがない。

 いや、方法はひとつだけ残っていた。

 最後の、手段。

 ――わたしが、いなくなればいい。

 ブリザードのエネルギーの源泉は、少女の存在そのものであった。

 ――わたしが存在することを止めたら、きっと。

 そして……少女には、その覚悟があった。

 ――わたしは誇り高い、守嶺家の当主なのだから。

 死ぬことは、怖くない。

 華多岡も一緒だ。

 一族のみんなには、白北ヶ峰を降りるときにお別れをした。

 あとは……。

 ――鋭次郎くん。

 魅雪は心の中で彼に話しかけた。

 ――久しぶりに会えて嬉しかったよ……。

 鋭次郎くん、わたしのことを覚えていてくれたし。

 わたしのことを何度も守ろうとしてくれたし。

 真似事だけど……デートして、腕も組んじゃったし。

 キス、も……。

 もっとお話したかったな。

 鋭次郎くん。

 本当は、普通の女の子として会いたかった。

 恋人になったり……。

 結婚したり……とか。

 あなたに愛されて。

 あなたの子供を産んで、

 ふたりで育てて。

 ……今度生まれ変わったら、きっと……。

 ああ……でも、生まれ変わるには……。

 でもいいの。

 あなたの命を助けることは、出来たから。

 わたしはあなたに、もう一度会えただけで。

 それで十分なの。

 ……さよなら鋭次郎くん。

 さよなら。

 鋭次郎くん。

 ずっと大好きだった。

 この十三年、ずっとあなたのことばかり、考えてた。

 ごめんなさい、わたしの勝手な想いにつき合わせて。

 あなたを巻き込んで……。

 ……でも、ありがとう。

 会えて本当に嬉しかった。

 さよなら、鋭次郎くん。

 きっと幸せになって。

 わたしが死んでも、悲しまないで。

 自分を、責めないで。

 わたしの命はね、どのみち、この春までだったの。

 夏までは持たないだろうって、言われてた。

 仕方ないの。

 守嶺の女は寿命が短いから……。

 特にわたしは、色々無理しちゃってたから。

 当主、だし。

 だからね、

 わたしの分まで、たくさん生きて。

 神様、もしもわたしの声が聞こえていらっしゃるなら……

 彼を守ってください。

 わたしのこの命は、鋭次郎くんにあげてください……。

 ……ああ……。

 さよなら。

 さよなら。

 さよなら……。

 ……鋭次郎くん……。

 ……。 

「魅雪ちゃん!」

「……」

「魅雪ちゃん!」

「……?」

「魅雪ちゃん!」

 目を開けると、吹雪の中、鋭次郎が少女を見下ろしていた。

「……鋭次郎くん……?」

 ――これは、夢? それとも、幻覚? 

「魅雪ちゃん! 大丈夫!?」

 目の前で、鋭次郎が必死な顔で叫んでいる。

 ――ああ、本物だ。本物の鋭次郎くんだ……。

 胸の中に、暖かい感情が溢れた。

 ――神様。最後に彼に会わせてくれて、ありがとう……。

「魅雪ちゃん! 魅雪ちゃん!」

「バカね……そんなに近くで叫ばなくても、聞こえてるわよ」

 ――わたしったら。こんな状況でも、憎まれ口しか出てこない。でも、しょうがないよね。これが、わたしという人間なのだから。

 ――ね、華多岡?

 彼女がそばで微笑んでくれた気がした。

「鋭次郎くん……助けに、来てくれたの……?」

「ごめんね、遅くなって」

「ううん。ありがと」

 すごく嬉しいのに、ありきたりの言葉しか浮かばなかった。

「鋭次郎くん……さっきはひどいこと言って、ごめんね」

 やっと素直になれた。

「いいんだ。分かってるから」

 鋭次郎は、優しく首を振った。

「……それより、魅雪ちゃん、手が……」

「ああ、これ……? 號羅童子と引き換え……これくらい、あの大羅刹を退治出来るのなら、安いもんだわ」

 両腕はもうすっかり感覚を失っていた。痛みは感じない。

「……でも、勝ったんだね?」

「奴は、完全に消滅したわ……」

「さすが魅雪ちゃん」

「えへへ」

 少女は得意そうに微笑んだ。

「鋭次郎くん……あの女の子は……?」

「大丈夫、無事だ。安全なところに寝かせてるよ」

「……良かった……」

 ほっとして、意識が遠のきそうになる。

「しっかりして!」

 鋭次郎が魅雪の体を抱き起こした。

「ううっ!?」

 鋭次郎が悲鳴を上げた。

 暴走する魅雪の体に触れた生身の人間が、ただで済む筈がない。極度の冷たさは、燃え盛る炎にも似ている。絶対零度の少女の体が、鋭次郎の命を奪うのに時間はかからない。

「手を離して!」

 魅雪は最後の力を振り絞って鋭次郎の手を振り払い、何とか立ち上がった。

「でも……魅雪ちゃん!」

 彼の両手が、見る見るうちに凍傷で真っ赤に焼け爛れていく。その手を見て、少女は平常心を取り戻した。

 ブリザードが吹き荒れる館内を見回し、冷気の暴走を食い止めるべく、もう一度精神を集中する。瞳を閉じ、代々守嶺家に伝わる呪文を懸命に吟じて、氷の精霊に呼びかける。少女の美しい声が、フロアの隅々まで響き渡っていく。

「……」

 だが、暴走は止まる気配が無かった。やはりもう、手遅れなのだ。

 魅雪は意識して険しい表情を作り、鋭次郎に言い放つ。

「桂木巡査、女の子を連れて、早くここから逃げなさい」

「え……?」

「さっきも言ったでしょ!? ただの人間風情が、この守嶺魅雪の手助けをしようだなんて、おこがましいのよ」

「でも」

「うるさいっ!」

 少女は、徹底的に鋭次郎を突き放すことにした。そうでもしないと、人の良い彼は、今度は少女に肩でも貸そうとしかねないからだ。出来る限り冷酷な表情で彼を睨みつける。

「わたしの冷気の暴走は……もう、止まらない」

「え……」

「だからわたしは、わたしという存在を停止することによって、暴走を止めることにする」

「それは……つまり……」

 鋭次郎は愕然として、魅雪の眼を見つめた。

 少女はシニカルに笑って見せた。

「そういうことよ」

「待って! そうだ、華多岡さん! 華多岡さんの助けを借りれば……」

「華多岡は死んだわ」

「……!」

 鋭次郎は絶句した。

「桂木巡査。最後に、あなたにあげたいものがあるの……」

 鋭次郎は真剣な表情で、魅雪の言葉を待った。

「わたしは、あなたを鬼狩りの世界に巻き込んでしまった。本当に、申し訳なく思ってる」

「そんなこと……」

「あなたのこと、わたしが守りたかったけれど……もう、時間切れだわ」

「魅雪ちゃん……」

「だから、わたしのこのペンダントを、あなたに託します」

 少女は、胸のペンダントに目を落とし、思いを込める。

「號羅童子はもういないけれど……もしもこの先、強力な鬼に出会うことがあったら、このペンダントをぶつけなさい。わたしの分身となって、その鬼を消滅させるでしょう」

 両腕を失っている魅雪は、ペンダントを食いちぎって、鋭次郎の足元に投げた。鋭次郎は、跪いてペンダントを拾い上げる。

「失くさないでよ」

「え?」

「そのペンダント、失くさないでよね……昔、大切な友達にもらった、わたしの宝物なんだから……」

「魅雪ちゃん……」

 少女の両目から、涙が溢れ出した。涙は頬で凍りつき、真珠のような結晶となって、転がり落ちる。

「さよなら、鋭次郎くん」

 最後に、少女は彼に、精一杯の笑顔を送った。

 ――鋭次郎くん。

 最後にあなたとお話し出来て良かった。

 こんな温かい気持ちで人生を終わることが出来て良かった。

 もうすぐ、わたしの体は粉々に砕け散って、

 ひとつひとつが雪の結晶となって、

 天に還って行く。

 さようなら……。

 さようなら。

 さようなら。

 大好き……。

 ……。

 ……。

 ……。

「……!」

 そのとき、少女の中で、何かが途切れる音がした。

「魅雪ちゃん?」

 ……鋭次郎の姿が、遠くに霞んで見えた。

「魅雪ちゃん……!」

 ……彼の声が、遠くでこだまして聞こえた。

「魅雪ちゃん!」

 ……彼、が……。

 ……かれ……。

 ……か……。

 ……。  

 ……。 

 ……。

 ……。

 ……。  

 ……。

 ……。

 ……。

 ……。  

 ……。 

 ……。

 ……。

 ……。  

 ……。

 両腕の無い少女の体は、限りなく透明になり、ガラスが砕けるような音とともに、粉々に分解した。欠片のひとつひとつは、宝石のように青い光を放ち――。

 光は、眩しいほどの輝きとなって上昇して行く。

 鋭次郎は天を仰いだ。

 魅雪の魂が水族館の天井を通り抜け、天高く昇って行くのを、鋭次郎は確かに見た。

 やがて光が消えると、館内を吹き荒れていたブリザードは嘘のように収まり、青い壁に囲まれた水族館には、平穏が戻った。

 そして、鋭次郎は気づいた。床に降り積もった白い雪のような結晶の中から、紅い小さな光の球が転がり出て、何処かへと飛び去るのを――。

 號羅童子の魂は、まだ、消滅していなかったのだ。

...............................................................................…


いかがでしたか?

この章は書いていてつらかったです。
私はいつも結末を決めずに小説を書いているので、作者でありながら、書きながら結構ハラハラドキドキしています。
「それでよく完結しますね?」と時々言われますが、不思議なことにどうにかなるものです。

物語は、まだもう少し続きます。
ひとり生き残った鋭次郎、そして鬼は……?



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