「白銀の輪舞」第十三章「暗い海の底に」①
第十三章 「暗い海の底に」
魅雪はすこぶる上機嫌で、上りのエスカレーターに飛び乗った。
コートのポケットには、今夜のライブ・チケットが一枚。
もう一枚は、もちろん鋭次郎が持っている。
生まれて初めてのライブ。しかも、ふたりの再会の夜に歌声が流れていたアーティストのライブなのだ。
――そりゃあ、あの時はかなりの緊急事態ではあったけれど……でも、ふたりの共通の想い出の曲であることに変わりはないわ。
それがとても嬉しかった。
――そして……きょうはわたしの、十八才の誕生日だもの。
なんて素敵な、バースデー・プレゼント。
振り返ると、少し遅れてエスカレーターに乗った鋭次郎が目で合図した。
――わたしたちって、周りからは本当に恋人同士に見えているのかしら?
少女はエスカレーターですれ違う人たちに質問してみたい気持ちを抑え、斜め下の鋭次郎に話しかける。
「ねえ、一番上の七階には何があるの?」
「映画館と水族館があるけど、行ってみたい?」
「じゃあ……水族館に行く!」
「生き物が好きなんだね」
――それもあるけど。映画見ちゃうと、鋭次郎くんとお話し出来ないから。
水族館の入場券を自動販売機で買い、幼稚園くらいの女の子を連れた母親に続いて水色のアーチをくぐる。母親が魅雪と同じ白のダッフルコートを着ていたので目に付いた。手をつないでいる女の子も、白いハーフコートを着ている。お揃いのファッションが微笑ましい。
薄暗い館内には、シンセサイザーの静かな音楽と波の音が天井のスピーカーから流れていた。
入り口からしばらくは、青い壁に埋め込まれた小さな水槽が並んでいる。
水槽はそれぞれ、色とりどりの熱帯魚や干潟の生き物たち、カエルなどの水生生物の展示と、小さいスペースなりに趣向を凝らした展示となっていた。
魅雪と鋭次郎は、ひとつひとつの水槽を覗き込み、やれこの魚は政治家の誰それの顔に似てるだの、やれシオマネキは自分のハサミが重くないのだろうかだの、いちいちコメントしながら歩いた。
通路の突き当たりに、大きな水槽が見えた。
「あっちに行ってみようよ!」
勢いで思わず鋭次郎と腕を組んでしまう。
「魅雪ちゃん……」
鋭次郎のはっとした表情に、少女も凍り付いてしまった。
彼の左腕に掴まったまま、ドギマギしてしまう。
「えと……腕くらい、いいよね? だって、デートっぽく見えなきゃだし」
「そ、そうだよね……通常、恋人同士であるならば、腕くらいは組むと思われるし……」
いかにも警察官らしい生真面目な物言いがおかしくて、少女は吹き出してしまった。
「じゃ、むしろ腕、組んじゃおうか?」
「了解」
ふたりは腕を組んだまま、連れ立って突き当たりの大きな水槽へと歩いた。
右腕に感じる、鋭次郎の体温……。
なんて愛しい温もりなのだろう。少女はこの温もりを知っている……ほんの小さな子供の頃から。
――わたしがこんなにもあなたを想っていると知ったら、あなたはどう思うかしら?
――あなたは、あの約束を思い出したのかしら?
――そのとき、わたしたちは……。
十数メートルほどの距離が随分長いようにも、逆に短いようにも感じられた。
――この通路が、ずっと終わらなければいいのに……。
魅雪は一歩一歩を心に刻むように、大切に歩いた。薄暗い廊下に響くふたりの靴音すらも、愛しく感じられた。
たどり着いた大きな水槽の中では、二頭の小さなイルカが泳いでいる。
「このイルカ、何か変わってる……まだ子供かしら?」
鋭次郎の腕を掴んだまま、魅雪は首を傾げた。
「スナメリだよ」
「スナメリ?」
「小型のイルカで、背びれが無いのが特徴なんだ」
ああ、本当だ。背中に何も無くて、つるっとしている。それで違和感があったんだ。子供の頃、鋭次郎に薦められて読みふけった動物図鑑の知識が蘇ってきた。
体長一メートル程のスナメリは、口が短く、愛嬌のある顔をしている。目がつぶらで、丸刈りにした幼い男の子のようにも見える。
「動物に詳しいのね?」
「うん。子供の頃は、図鑑とか……動物モノの小説を読むのが好きだった」
「椋鳩十とか?」
「そう! 魅雪ちゃんも読んだ?」
目を輝かせた彼に、少女は微笑んで見せた。
――読んだわ! あなたから教えてもらった本を!
二頭のスナメリは、水槽の中を凄いスピードで泳ぎまわったり、二頭で絡み合うようにクルクルと回転しながら泳いだりした。
「楽しそう……」
「仲がいいね。恋人同士かな?」
「うん、きっとそうだわ」
鋭次郎の笑顔を間近に見て、少女の胸の鼓動は高まっていた。
――腕を組んじゃってるし……心臓の音、気づかれないかな?
「ねえ、魅雪ちゃん」
急に名前を呼ばれ、少女の緊張は頂点に達した。
「な、なあに?」
鋭次郎の目は、スナメリを見つめたままだ。
「魅雪ちゃんとは、子供の時に会ってるよね?」
「……!」
息が止まりそうだった。
「やっぱりね」
組んだ腕に力が入ったのを感じて、鋭次郎が笑った。
「やっぱり君は、幼馴染の魅雪ちゃんだった……初めから、俺のことに気づいてたんだろ?」
魅雪は答えられず、ただ、ぎゅっと鋭次郎の腕にしがみついた。
「どうして魅雪ちゃんから、話してくれなかったの?」
「……」
「ごめんね」
少女は、彼の横顔を見上げた。
――何故、謝るの?
「俺、君のことをずっと忘れてたんだ……実はちゃんと思い出せたのって、昨日の夜のことで」
――それは、あなたのせいじゃない。
「……最初に少しだけ思い出したのは、銃で撃たれて死にかけたとき……何故か、君の顔が夜空に浮かんで……小学生の時以来、本当に久しぶりに。そしたら、声まで聞こえてきた」
――あの夜。鋭次郎くん、わたしのことを思い出してくれてたんだ……。
魅雪の胸に暖かい感情が溢れた。
「だけど……あの夜に聞いた声は、昔の、子供の頃のみゆきちゃんの声じゃなかった」
鋭次郎は、少女の琥珀色の瞳を覗き込んだ。
「今の君の声、そのものだった。きれいな、ピアノみたいに澄んだ声」
魅雪は、何も言わずにうつむいた。
「君は俺を、鬼狩りの途中でたまたま救ったんじゃない。俺のことを助けに来てくれたんだろ?」
「……」
「手を見せて」
白い包帯が巻かれた、少女の繊細な手のひら。細く白い指先。
「あの夜、この手が俺の首筋に触れたときのことを、はっきり覚えてる」
鋭次郎は魅雪の右手を、包帯の上から優しく撫でた。
「本当にありがとう」
少女は急いで首を横に振った。今にも涙が溢れ出しそうで、必死に我慢していた。
「ホント言うと……昔、魅雪ちゃんと出会った頃の記憶は、まだあやふやで思い出せないことが多いんだけど……」
「……」
「ねえ、魅雪ちゃん」
「……?」
青年は、大きく深呼吸をした。
「よかったらもう一度、僕と友だちになってくれませんか?」
「!」
彼を仰ぐ大きな目が見開かれた。
「その……ダメかな?」
――そんな、駄目だなんて……。
もう、どうしようも無かった。子供の頃から必死で押し止めていた感情が、波のうねりとなって一気に押し寄せてきた。鋭次郎の顔が、あっという間に涙でぼやけてしまう。唇が震えて、上手く喋れない。だから少女は、懸命に彼の腕にしがみついた。何度も何度も頷いて、彼の右腕を抱き締めた。
「ありがとう魅雪ちゃん。俺、君とまた逢えてすごく嬉しいんだ。何て言えばいいのか分からないくらい。本当に、こんな不思議なことがあるなんて」
鋭次郎はしみじみと語った。
――わたしだって!
少女の両目から大粒の涙が溢れ出した。
――嬉しいよう……。
魅雪にとっては幼い頃から十年以上、毎日のように恋焦がれ、夢見ていた瞬間だった。
少女の涙はなかなか止まらなかったが、そうしている間、鋭次郎は黙って長い髪を撫でてくれた。幼い五歳のころの魅雪にしてあげていたように。
――嬉しくて嬉しくて、このまま死んじゃうかも……。
一体どれくらいの間、そうしていたのだろうか。
「はい、ハンカチ」
「……うん」
彼が貸してくれたハンカチで目を拭うと、華多岡に手伝ってもらったメイクは、マスカラもアイシャドウもファンデーションも全部涙で流れてしまったみたいだ。これだけ落ちてしまえば、もうすっぴんと変わらないかもしれない。
「それで洟をかんでもいいよ」
鋭次郎が笑う。
「……バカ!」
一瞬だけ鋭次郎を睨み付け、メイクが落ちてしまっていることを思い出して、慌てて目を反らす。
「こ、このハンカチは、ちゃんと洗って返すからねっ!」
鋭次郎はニヤニヤ笑いながら、少し意地悪く言った。
「君が? それとも華多岡さんが?」
「失礼ねっ! ハンカチぐらい、わたしが自分で洗うわ!」
口を尖らせながら顔を上げると、鋭次郎の顔がすぐ近くにあった。
――え?
瞬間、彼の唇が重なってくる。
暖かくて柔らかくて、ただただ優しい感触。
「ごめん」
鋭次郎が慌てて顔を離した。
「でも俺……君のことが、ずっと好きだったんだ。思い出せない間も……十三年間、ずっと君だけが。おかしいよね? でも、本当なんだ」
「おかしくなんかない」
魅雪は大きく首を振って、彼の腕をもう一度強く抱きしめた。
「……わたしも鋭次郎くんのこと……わたしも、ずっとだから」
目を閉じると、組んでいた鋭次郎の腕が腰に回り、そっと抱き寄せられた。
――神様。
――もしもこの世界にあなたがいらっしゃるのなら……本当に、本当にありがとう。
ふたりは大きな水槽前のベンチに、身を寄せ合って座った。
「子供の頃にもこんなこと、あったよね? 君が泣いて、俺が背中をさすってあげてさ」
鋭次郎の胸で、魅雪は頷いた。
「そうだよ、思い出した!」
青年の眼が輝いた。
「山の秘密基地だ!」
「うん」
少女の胸に、大きなイノシシに雄々しく立ち向かった少年の姿が蘇る。
「でもあの時はさすがに、キスはしなかったかな?」
「……バカ」
うつむいたまま呟く。
「だって……まだふたりとも子供だったもの」
少女は自分の唇に手を当て、頬を赤く染めた。
鋭次郎は次々と記憶を取り戻している。華多岡の言う通り、彼が『約束』に辿り着くのは、きっともうすぐだ。
「あれ?」
鋭次郎の口調が変わった。
「どうしたんだろう」
「……?」
「目が、目が熱いんだ……」
彼を見上げた少女は息を呑んだ。鋭次郎の目が、本来の黒い瞳から色素の薄い茶色い瞳に変化していた。
それは彼の霊能力が強まり、鬼狩りの戦士へと変貌しつつある証拠であった。まだ魅雪や華多岡ほど薄い色ではないが、じきに琥珀色へ変わっていくだろう。
いよいよ『約束』の時が近づいているのだ。
「ごめんなさい」
少女の心に、今度は悲しみの大波が押し寄せてきた。
「何故、謝るの?」
「わたしは……幼いあの日、あなたを……この恐ろしい魑魅魍魎の世界に引き込んでしまった……」
自分の胸の中で震える少女の華奢な体を鋭次郎は抱きしめた。
「それは違う」
鋭次郎は力強く言った。
「まだよく思い出せないけど……きっと俺が望んで、そうしたんだ」
「鋭次郎くん……」
「君は俺の、世界で一番大切な友だちだったから」
「うん……」
――わたし、いま、世界で一番幸せな女の子かも……。
恥ずかしげに瞼を閉じる少女を見て、鋭次郎は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ていうか友だちの一線は、もう超えちゃったかな?」
「……バカ」
今度は耳まで真っ赤になってしまう。
「……ねえ魅雪ちゃん」
鋭次郎の顔付きが真剣になった。
「俺はあの日、あの雪山で、君と何か『約束』をしたと思う」
「……」
「それは君にとって、とてもとても大切なことで……絶対に思い出さなければいけないことなんじゃないかって気がしてるんだ……そして君はその約束を果たしてもらう為に、十三年ぶりに俺の前に現れた。そうだろう?」
魅雪はゆっくりと頷いた。
やはり鋭次郎の洞察力は大したものであった。
「號羅童子は俺のことを『鍵』じゃないかと疑い、華多岡さんは、『制約』の話をしてくれた……魅雪ちゃん、俺は君の中の何か大きな『制約』を解き放つ『鍵』なんだろ? そしてそれは恐らく今回の號羅童子狩りに直結している……違うかい?」
「……」
少女の沈黙は、鋭次郎の言葉が真実を言い当てていることを、何よりも強く物語っていた。
「魅雪ちゃん。俺は君の為に何をすればいい? 俺はあの日、君と一体、何を約束したんだ?」
少女はうつむいて首を横に振った。
古い掟により、それだけは話してはならなかった。
あくまで鋭次郎が自分の力で『守嶺の秘術』を打ち破り、記憶を取り戻さなければ、『約束』の効力は永遠に失われてしまうからだ。
だが『約束』を果たす瞬間は、恐らくもう目前に迫っているようだ。
その時、バッグの中から微かな振動が伝わってきた。
――メールだ。
水族館に入った時、案内に従い、携帯電話をマナーモードにしていたのだった。
少女にメールを送ってくる相手はひとりしかいない。白いふたつ折りの携帯を開くと、予想通り、忠実な従者からの長いメールだった。
メールは『男女交際のコツ』という古めかしいタイトルに始まり、会話の選び方や視線の送り方などのアドバイスが事細かに綴られており、最後は「親愛なるお嬢様へ」で結ばれていた。
「魅雪ちゃん、静かに」
少女が携帯を抱き締めていると鋭次郎が顔を近づけ、声を落として言った。
「……?」
鋭次郎の琥珀色の瞳は、魅雪を見ていなかった。
彼の視線を追うと、遠くのドアを開けて入って行く親子連れの背中が見えた。あの白いコートは、ふたりの前に水族館に入った母子だ。
確かあのドアには「家族ルーム」と書いてあった筈だ。親子連れが授乳や、おむつ交換をする部屋だと思う。
「何かおかしい」
真剣な目で呟く。
彼の霊感が何かを捉えたのだろうか?
鋭次郎がベンチを離れ、母子が消えたドアへ走る。魅雪も急いで後を追った。緑色のドアの前に立ち、目と目で合図して勢い良く鋼鉄製のドアを引き開ける。
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いかがでしたか?
基本的には15年くらい前に書いた作品なので、いま読み返してみると直したいところも多々ありますが……この章に関しては、若い2人の勢いでいいかなぁ、と思い、あまり直してませんσ(^_^;)。
幸せになって欲しいなあ。
次回、大きく展開します。
お楽しみに。