「白銀の輪舞」第十二章「フェイク」
第十二章 「フェイク」
守嶺家の隠れ家として使われている、三十階建て高級マンションの最上階。
もう昼間だというのに、窓は全て厚いカーテンで締め切られ、外部からの光を一切遮断している。
部屋の留守を預かる華多岡は、鬼と闘う屈強な肉体を手に入れる為、太陽の光に当たってはいけない体になってしまったからだ。モノトーンのお洒落なリビングは、まるで真夜中のように間接照明の柔らかな光に満たされている。
華多岡はキッチンで夕食後のデザートの準備をしていた。
きょうは美しき主、魅雪の十八才のバースデーだ。誕生日は毎年ふたりきりでお祝いをしてきたが、今年は魅雪の想い人、鋭次郎も一緒である。元喫茶店のマスターとしては、腕によりをかけておいしいデザートを作り、ムードを盛り上げたいところだ。
――そうだ。そろそろお嬢様に応援のメールをお送りせねば。
華多岡は卵とグラニュー糖を泡立てていたボールを手元に置いて、流し台で手を洗った。左腕の火傷の跡は、すっかり消えてしまっている。
うす紫色の携帯を手に取り、常人離れしたスピードで文章を打ち込んでいく。指先の動きの速さは目で追えないほどだ。魅雪からは半分尊敬の眼差し、半分呆れ顔で「歩くタイピングマシーン」と評されている。
古めかしい言葉遣いを好む華多岡だが、最先端のガジェットに強い興味を示し、一族の誰よりも早く使いこなすのもまた彼女なのであった。
ふと、背中に気配を感じて振り返る。
「まあ、お嬢様」
窓際のソファに、白いダッフルコートの魅雪が座っていた。
「わたくしとしたことが……デザート作りとメールに夢中になり、お帰りに気づかずに失礼致しました」
「いいのよ」
魅雪は、長い黒髪を両手で肩の後ろに払った。
「鬼狩りの戦士最強と謳われる華多岡にすら気配を感じさせない……さすがはこのわたし、守嶺魅雪だわ」
「最近のお嬢様のご成長ぶりには、目を瞠るばかりです。このわたくしなど敵う筈もございませんわ」
生成りのエプロンを身に付けた華多岡は、恭しく頭を下げた。
「結構。直ってよろしい」
少女は無邪気に笑う。
「ねえ、メールって何?」
尋ねる主に、従者は首を振って見せた。
「内緒です。後ほどお送りしますのでお楽しみに」
「そ? 分かったわ」
主は質問を重ねることなく、あっさり引き下がった。鼻歌混じりでコートのボタンを触る。
「お嬢様。随分とご機嫌なご様子ですね?」
「うん!」
少女ははにかみながら、小学生のように大きく頷いた。
「きょうはとても楽しいの。こんなの、生まれて初めてかも……華多岡のおかげね」
素直に感情を表す主人の笑顔を眩しく感じつつ、華多岡は壁のデジタル時計を見た。まだ昼前だ。帰りは夕方の筈だったが。
「お嬢様、もうお帰りなのですか?」
「そう。いったん帰って来ちゃったの」
魅雪は、謎をかけるように微笑んで見せた。
「桂木様は?」
「喧嘩しちゃった」
「え?」
目を丸くした華多岡を見て、魅雪は吹き出した。
「うそウソ、冗談! 鋭次郎くん、わたしが何を言っても怒らないんだもん。喧嘩になる筈ないわ」
きょうの魅雪は、とことん上機嫌だ。
「警察署に忘れ物があるんだって。で、わたしも一緒に警察に行くのもヘンだし……ここまで一度送ってもらった後、彼ひとりで取りに行ったの」
「そうでしたか」
「すぐに戻るって言ってたから、彼が来たらまた出かけるね」
「承知しました」
華多岡はエプロンを外そうと背中に回した手を止めた。
「桂木様、おひとりで大丈夫でしょうか?」
「大丈夫よ。だって鬼は夜しか活動しないもの。知ってるでしょ?」
「もちろんです」
「もしも昼間に鬼がうろついていたとしても、人を襲うことはないわ。それに、彼の方が鬼よりも先に気づいちゃうでしょ」
「……そうですね。鬼が少しでも妖気を発していれば、今の桂木様なら、きっとお気づきになるでしょう」
「そ!」
華多岡は、エプロンの紐をもう一度結びなおした。
「お嬢様、お昼ご飯はどうなさいますか?」
「さっき朝ご飯、食べたばかりじゃない」
呆れたように笑う魅雪に、華多岡は首を傾げた。
今朝、少女は華多岡に「胸がいっぱいで食べられない」とこっそり耳打ちして、朝食にはほとんど手をつけなかったからだ。
「あのね、彼と一緒にランチする約束したから……」
少女のはにかむ姿を見て、華多岡は微笑んだ。
「それはそれは。では、お飲み物は?」
「そうね……それもいらないわ」
魅雪はダッフルコートを脱ぎ、ソファから立ち上がった。
「今から、お前の血を飲むから」
魅雪の琥珀色の瞳が、一瞬のうちに鮮血の様な赤い色に変わった。間接照明を受けてぬらぬらと光る。
「華多岡。お前は、わたしの言うことなら、何でも聞くわよね……?」
ゆっくりと華多岡に近づいてくる。
「このワタシの、忠実なシモベ、なんだから」
笑った口元には、肉食獣のように尖った歯が並んでいた。
「やれやれ。まだ昼間だというのに活動出来るとは、鬼の癖に何とも節操が無い……」
華多岡はため息をついた。
「否、さすがは伝説の大羅刹と言うべきでしょうか」
華多岡は脱いだエプロンを丁寧に畳みながら言った。
「いずれにしろ、神聖な守嶺家のご当主に擬態するとは万死に値します」
「万死? 殺セルの? オマエに、このワタシが……?」
喋るうちに、だんだん鬼独特の、低音に悲鳴のような高い音が混じった不快な声に変化していく。
「これは失礼……間違えました」
黒い皮の手袋をはめながら、華多岡が言う。
「きっちりと、封印させて頂きます」
「デキルモノか」
鬼の額には、三本の尖った角が生えていた。昨夜出会った時よりもさらに進化し、力を増している証拠である。
「たった一晩で三本目の角が生えるとは、驚くべき急成長ぶりですね……」
「モウ、慎重にナル必要ハ、無イカラナ」
尖った歯が飛び出した口からは大量の涎を垂らし、独特の臭気を発している。肌の色は澱んだ灰色に変化していた。
「お嬢様のお姿で、そんなはしたない顔をしないで頂きたいわ」
主人に化けた鬼がゆっくり近づいて来るのを見ながら、華多岡は端正な顔をしかめた。
「ウひひ。お前たちには二度モ封印されかけたが……」
鬼は、背の高い華多岡を見上げて言った。
「本当に厄介なノハ、守嶺家の当主ノミが持ツ『魔物封印の奥儀』……アレだけは、術の格がチガウ……マタ三百年も封印サレルのダケは、御免ダ。デ、今回マダ見せていない奥儀発動の『鍵』ヲ開けるのは、オマエの役目ナノか? ソウナンダロ?」
「さあ?」
華多岡は、肩をすくめて見せた。
「何故、イママデ奥儀を使ってイナイ? 理由はナンだ?」
「貴方は知らなくてもよいことです」
「生意気な……」
魅雪に擬態した長い髪が、鬼の怒りとともにふわりと浮き上がった。
広いリビングに、重く湿った空気が充満していく。
「ご心配なく。次は必ず、奥儀を使って貴方を封印しますから」
「モウいい……コタエはドウでもイインダ……ドノミチ殺シテ、お前ノ頭を食エバ分かるコトダ。便利ダロ?」
至近距離から襲いかかって来た鬼の両手を、華多岡は、いとも簡単に受け止めて見せた。
「ウヌぬッ!?」
華多岡の手は、昨夜よりさらにパワーアップした筈の鬼の両腕を、しっかりと掴んでいる。
「今日の私は、強いですよ」
華多岡は、眼前から素早く飛び退いた鬼の紅い目を、琥珀色の目で睨みつけた。
「わたくしの敬愛するお嬢様のお姿を汚すなど、到底、許されることではありません」
「グおおオオおおッ!」
鬼が怒声を上げながら繰り出してくる神速の拳と蹴りを、華多岡はひとつひとつ、正確に捌いた。
「クソウッ! 全然アタラナイっ!」
鬼は早くも肩で息をしているが、華多岡は平然とした顔で、姿勢良く立っている。
「昨夜は少しばかり遅れを取りましたが……きょうだけは絶対に許さない。何度も申し上げますが、いまのわたくし、かなり怒っていますから」
「ケッ!」
想像以上の華多岡の体術に動揺しながら、鬼は吐き捨てるように言った。
「許さなかったら、ドウスルんダ? あのハネッカエリの小娘がイナケレバ、鬼ノ封印は無理ダロ!」
「封印は難しくとも」
華多岡は、キッチンの横に立てかけた細長い風呂敷包みを手にした。
「貴方を痛めつけ、足止めをすることは出来ます。すでにご存知のようですが、これでもわたくし、守嶺最強の戦士と呼ばれておりまして」
包みからは、長さ一メートル程の、黒光りする木の棒が出てきた。
「ナニヨ……、ソノ棒?」
「飛鳥時代、この国で最も強い法力を持つと言われた行者が、鬼封じに使っていたと伝えられる金剛杖です。本来は、六尺ほどの長さがあったのでしょうが……ま、かなりのビンテージものですから。ちょっと短くなっております」
「グ……」
鬼が低い声で唸った。
「その杖、その匂イ……知ってイルゾ……」
「ほう?」
「忌々しき役行者、小角……」
鬼の眉間に、まるで彫刻刀で刻んだような深い皺が寄った。
「まあ。ご存知でしたか」
華多岡は目を見開いた。
「その通り。伝説の行者『役の小角』が使っていたとされている杖ですよ。本当だったんですねえ。さすがは魔界の古株」
「糞イマイマシイ。マサカ、コンナところで、ア奴の名前と出会うトハ……」
「ふむ。千年を越える宿怨のお相手とは。それは面白い」
華多岡は楽しそうに笑った。
「……それにしても、お嬢様のお顔で『糞』などと言う汚い言葉は、使わないで頂きたいのですよ」
「ヌカセ!」
鬼の回し蹴りを華多岡が杖で受け止めた瞬間、激しい衝撃音とともに青白い光が炸裂し、鬼の体を弾き飛ばした。
「うががガ……」
フローリングの床に倒れた鬼は、口から涎を垂らしながら、のた打ち回った。
「チ、畜生、動けナイ……っ!?」
「凄い衝撃だったでしょう? インパクトの瞬間、この杖の『念の力』が青い火花となって迸るんです。何しろこの杖には、役行者小角を始め、千年以上にわたる鬼狩りの修行者たちの強い念が込められていますから」
手元で杖をクルクルと回し、胸の前で構える。
「ついでに、このわたくしの恨みもね」
華多岡はゆっくり歩いて来て、鬼に杖をかざした。
「だが、こんなものでは済まされません。貴方たち鬼へのわたくしの憎しみは、決してこの程度では済まされないのです」
「グググっ……」
鬼はまだ動くことが出来ず、華多岡を紅い目で睨みつけるのが精一杯だった。
「何故だ……奥義の秘術はトモカク、何故、最初カラ、コノ杖を使わなカッタ?」
「敵ながら、もっともなご質問ですね」
華多岡は美しい顔に酷薄な微笑を浮かべ、慇懃無礼に言った。
「切り札というのは、とっておくものです。そしてこの杖はとても強力なのですが、貴方が取り憑いている宿主の人間にまで、深刻なダメージを与えてしまうのです。ほんの一突きでもね」
「ウぎゃウッ」
動かそうとした鬼の片足を、金剛杖で打ち据える。魅雪に擬態した鬼の全身が痙攣した。
「この部屋ではもう、指一本動かしてはなりませんよ」
呆れたように言う。
「所詮、鬼に取り付かれるようなあさましい人間なら、一緒に痛めつけてもいいだろうという者も、守嶺には多いのですがね。ま、わたくしも概ね同じ意見なのですが……魅雪お嬢様だけは違うのです」
華多岡は、キッチンに置かれた魅雪のティーカップを見ながら呟いた。
「あのお方は本当にお優しい。天使のようなお方です。その証拠に、お嬢様の『凍気の宝珠』は、宿主の人間は傷つけることなく、鬼だけを凍らせて封じ込める……お嬢様は心の中では、鬼すらも傷つけたくないと、思っておられるのかもしれません」
「トンだアマチャンだな!」
毒づいた鬼の腹を、華多岡は金剛杖で突いた。鬼の全身を青い火花が瞬間的に這い回り、えびぞりになって悶える。
「グワわわううッ!」
「お嬢様を汚すのは、許さんと言っただろう?」
華多岡の口調が変わった。再び鬼に杖をかざす。武芸の達人らしく、一分の隙も無い構えである。
「ここまで同化が進んでは、今の宿主からお前を切り離すことは、限りなく難しいだろう……気の毒だが、もう容赦はしない」
「何ダト……」
床にへばりついた鬼が華多岡を睨みつける。
「號羅童子よ。お前の言う通り、お嬢様にはまだお使いになっていない『魔物封印の奥儀』がある。蘇るお前に備え、一族の叡智を結集した史上最強の技だ。お帰りを楽しみに待っているが良い」
「従者風情が……!」
「この杖はギリギリまで使わないつもりだったが。お嬢様が帰って来られるまでは、せいぜい苦しんでもらおう。そのうちお前は封印された方がマシだと泣き叫び、やがては自ら進んで封印を望むようになるだろう」
「ククク」
鬼が小さく笑った。
「雪姫が帰るマデ、あと何時間アル? 我を相手にシテ、ソノ身に余る霊力を秘めた杖を手に、お前ひとりで果たして持つノカ?」
鬼の指摘は鋭かった。
彼女が手にした杖は、見た目は唯の古い木の棒だが、実際には相当の熟練者にしか扱うことが許されない霊的な武具である。並みの術者であれば杖に込められた強烈な呪詛の虜になり、自らを滅ぼしてしまいかねないのだ。
華多岡ほどの戦士ですら、金剛杖を手にしている時は一瞬の気の緩みも許されない、諸刃の剣であった。
だが彼女は嘲るように返した。
「鬼め、脅すつもりか?」
灰色の顔を真上から覗き込む。
「心配するな。わたくしの体力なら三日三晩でも、十日連続でも、何なら一か月続いても大丈夫だ。いくらでも存分に相手をしてやる。今日この時の為に、一方ならぬ修行を積んできたのだからな」
その言葉は決してブラフなどではなく、真実そのものであることを鬼は感じ取った。
「待テ……」
鬼は荒い息をつきながら、唸るように喋った。
「俺も長イ歳月を過ごしてきたが、オマエホドノ戦士二ハ、なかなか出会わナイ……ただ闘うダケならば、アノ忌々しい役小角すら超えるやも知れぬ。コレ程の実力を持ちナがラ、何故アンナ小娘に付き従ってイル?」
「お前には関係の無いことだ」
守嶺の戦士には取り付く島が無かった。
「……ドウだ、俺と手をクマナイカ?」
鬼の紅い目が、卑屈に歪む。
「俺とお前なら、世界を手にイレルノモ簡単だ……金も、旨イ食い物も、全部お前のモノダ……」
「へえ? 伝説の大羅刹のくせに言うに事欠いて、随分と陳腐な提案をするものね」
華多岡は冷たい目で鬼を見下ろした。
「それから?」
「ぐ……ソウダ、守嶺魅雪! ミユキをお前のモノにシテヤル!」
鬼は細長い舌を出し、口の周りに溢れた涎をぺろりと舐め上げた。
「ウひひ……ドウだ、あの生意気ナ娘を、お前の意のままにシテ見たいト思わないカ? お前の奴隷とシテ、欲望のママに扱うがイイ」
「黙れっ!」
華多岡は、金剛杖で思い切り鬼を殴りつけた。
「グわわアアアアッ! 痛イッ! 痛イイいイい――ッ!!」
「お前は今、絶対に口にしてはいけないことを言った。わたくしが命を懸けて育て、慈しんできたあの方を汚すこと、決してまかりならぬ。鬼よ! 地獄の火花が爆ぜる中で、もがき苦しむがいい!」
最強の戦士は鬼を容赦無く何度も叩きつけ、その度に鬼の体から青い火花が激しく飛び散り続けた。