「白銀の輪舞」幕間「享保十七年」
幕間(インターミッション)「享保十七年」
眩しいほどの月明かりに、山々の頂きが白く輝いている。そのふもと――雪に覆われた平原に、ふたつの影が向き合っていた。
ひとつは身の丈が一丈(およそ三・三メートル)はあろうかという大男の影。
もうひとつの影は着物姿の娘である。
大男は全身灰色の体毛に覆われ、額からは円錐形の突起が二本突き出している。一見してこの世のものではないと分かる、異形の姿であった。凍りつくような寒さにも拘わらず、体の表面から滾るような熱気を発散させ、周囲の空間をゆらゆらと歪めている。
一方、大男に比べ余りにも華奢な娘は、雪ほどにも白い肌と長い黒髪、琥珀色の瞳が印象的だった。
年の頃は十代半ば。夜目にも艶やかな桜をあしらった着物は、真冬の夜には驚くほどの軽装だが、寒さは全く気にしていないようだ。白い足袋の足元は降り積もった雪に埋まっている。こちらもまた別の意味で、浮世離れしていると言えた。
「忌々シきハ……守嶺一族ノ、雪姫、……」
巨人が、野太い声で途切れ途切れに呟いた。地響きのような低い声に、時折裏声のような高い声と、泡が弾けるような濡れた音が混じっている。
喋りながら興奮してきたのか、血のような紅色の目を真円に見開き、鋭い鉤爪を少女に向けた。荒い息遣いとともに、口元から尖った牙の列が覗く。
「ダガ漸ク、此処マデ、追い詰めタ……。見るが良イ。見渡すバカリの雪ノ大地。お前がニゲル場所など最早ナイ」
だらしなくヨダレを垂らしながら笑った。
「骨の一欠ケラ、血のヒトシズクも残サズ、喰ライ、平ラゲテクレルわ!」
「は?」
少女は細い腰に両手を当てて、異形の怪物を見上げた。
「逃げられないのは吾の方であろうが。強がりもいい加減にするがよい。いや、それとも本当に分かっておらぬのか……」
呆れたように息を吐き出し、天空を仰ぐ。目の前の怪物への恐怖など微塵も感じていない、平然とした態度であった。
「つくづくお前たち鬼は虫と一緒じゃ。蟷螂や鍬形が人間に向かって鎌を振り上げ、鋏で威嚇するに等しい。いや、図体が大きい分、虫よりもさらに救い難い。まったくもって馬鹿。いやいや『馬鹿』などと言っては、馬や鹿に申し訳ない程の大そうな馬鹿っぷり。はてさて、馬鹿という言葉を使わずに、吾の頭の悪さをどう言い表したものであろうかのう」
雪姫は満天の星を眺めながら、軽やかに言葉を紡いで鬼をこきおろした。
「ナニヲ……!」
「凄んでも無駄じゃ。そもそも吾のような小物になど興味が無い。だが一応鬼の端くれではあるから、これ以上悪さをする前に封印はする。それだけのこと」
「ウヌヌ……!」
鬼が全身の毛を逆立て怒りを漲らせる様子は、巨体だけあって相当な迫力であった。
だが、天を仰ぐ尊大な姫君に動じる気配は全く無かった。
空はよく晴れているのに、粉雪が舞っている。氷の姫は雪混じりの微風に長い黒髪を心地良くそよがせ、ひと際明るい星座に目を留めた。
「鼓星」
少女は星座の名をそっと口にした。
古来、日本ではオリオン座のことを、その形から鼓星と呼び親しんでいたという。
――星よ。そなたはわたしを、今度は何処へ誘おうとしているのか?
突如、雪原に轟音が鳴り響いた。稲妻が直撃したかのような、凄まじい音と振動。
鬼の足もとに大穴が開き、亀裂が走っていた。雪姫の傲岸不遜な態度に業を煮やした鬼が、力任せに地面を殴りつけたのだ。常軌を逸した巨躯に相応しい猛烈な膂力である。
姫君は顔をしかめた。恐怖に脅えたのではなく、舞い上がった土埃と雪で星々の光りを遮られ、苛立ったからであった。
「馬鹿なだけでなく、無粋でもある。まっこと度し難い」
「……雪姫ヨ」
荒い息をつきながら、鬼が忌々しげに唸り声を上げる。
「……ヨクモ、我が同朋達ヲ、次々と、封印シテ、クレオッタナ……」
「ふん」
姫は鬼から顔を背けたまま、鼻で笑った。
「何が同胞か。所詮、自分のことしか頭にない強欲な魔物が、言うに事欠いて同朋とは笑わせおるわ」
「タトエ、御前タチが、我ラ鬼ヲ、何匹封印シヨウト……必ズヤ、最凶の羅刹『強羅童子』様が、オ前達ヲ嬲り殺シ、血ノ海ニ、沈メヨウゾ!」
「ほう?」
土埃が収まり、再び見え始めた冬の星座から雪姫が目を離した。綺麗に切り揃えた前髪の下の瞳を、ゆっくりと鬼に向ける。
「初めて吾に興味が沸いたぞ」
と言いつつ、その興味も所詮――足元を歩いている虫が、実はちょっと珍しい虫だったことに初めて気付いた――程度でしかないことは、その表情から明白であった。
鬼は巨漢の自分が、逆に小柄な雪姫から見下ろされているかのような、奇妙な錯覚と焦りを感じ始めていた。
「小賢しく、つまらぬ鬼よ。吾は、最凶最悪の羅刹と呼ばれたあの鬼のことを、知っておるというのか?」
腐肉に集まる死出虫を見るような、蔑んだ顔つきで雪姫が言った。
「当然ダ」
鬼は大仰にふんぞり返った。
「俺ハ、コレからアノ御方ニ、俺様ノ偉大な力を貸シに行クトコロヨ……あの御方に俺様ノ無敵の力加わらば、お前たち守ミネなど蟻ノ如シ! 一気に踏みつけ! 踏みつぶシ! 嬲り殺シてクレル!」
勝ち誇った鬼の返答を聞きながら、雪姫の腰よりも長い黒髪がざわざわと音を立てて広がっていく。雪のように白い顔には、峻烈な怒りの表情が浮かんでいた。
「くだらぬ!」
「ぐわっ!」
腹部に強力な打撃を受け、鬼の巨躯が雪原に跪いていた。
雪姫の右こぶしが腹にめり込んでいる。
「ウウぅ……」
鬼は息が苦しくなり、両手で宙を描くような動きをした。だが、思い通りに動くことが出来ない。雪姫の手から流れ込む強い冷気が、鬼の体の自由を奪っているのだった。
「エイッ!」
雪姫は掛け声を上げると、鬼の腹に打ち込んだ拳を瞬時に開いた。
鋼のような白い五本の指が鬼の五臓六腑に突き刺さり、雪原に野太い叫び声が響いた。
「どうだ痛いか、苦しいか? 生きながら内臓を引き裂かれるのは、どんな気持ちだ? いつもお前たちが人間にやっていることだ。存分に味わうが良い」
美しい顔に凄惨な笑みが浮かんだ。
「そして今わたしの指先から、お前が蓄えた霊力を全て抜き取り、氷に置き換えている。人を喰らい、罪を重ねた分だけ、その苦しみは大きくなるぞ……果たしてお前はどうかな? お前が、さっきから自分で言っている通りの大羅刹なら、その苦しみは相当なものだろうよ。まさに因果応報じゃ」
鬼の動きが止まった。
「ヤ、やめろ……」
口元を歪めながら、必死に喋ろうとする。
「駄目だ」
剛毛に覆われた体が、パリパリと音を立てながら銀色に凍っていく。
「くだらぬ鬼よ。お前はここで氷の中に封印してくれる。抹殺ではない、封印だ。お前は氷地獄の中で、永遠に苦しみ続けることになるのだ……だがその前に」
突如、遠方で竜巻が発生した。雪姫の感情に呼応するかのように、竜巻は平原の雪を天高く巻き上げながら、次第に近づいて来る。
「聞かせてもらおうか……『強羅童子』の居所を」
姫の美しい瞳に青白い光が灯り、次第に輝きを増していく。
「わたしは、あの鬼と闘う為だけにこの世に生まれてきたのだから」
雪姫の瞳からほとばしる霊圧の高さに、鬼は戦慄を覚えた。
琥珀色の瞳に浮かぶ、オリオンのリゲルのように青く清冽な輝き――。
その霊力は、可憐な外見からはおよそかけ離れた底の知れない強大さであり、鬼は雪姫の言う通り「追い詰められていたのは、確かに自分の方だった」ということを、漸く理解したのだった。
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いかがでしたか?
ある人物の前世の姿・・・正直、無敵です(;'∀')。
さて、今生ではどうなんでしょうか。
お楽しみに!
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