50年先の社会に贈り届ける
林業は、50年後を見据えて仕事をするという。
日本の木桶職人は、「このままだと100年しかもたないけど、いま縄をほどいて締めなおせば150年はもつ。」と、自分が死んでいるタイムスケールで、大真面目に議論をするという。
本当の未来志向とはなんだろうか。こんな話を聞く度に考えさせられる。
50年後に生きているであろう人々の食い扶持をつくるために、現代に生きる人々がタネを蒔く行為。考えてみれば僕らの暮らしは、50年、100年、そのはるか以前の人々が切り開いてくれた道の延長にある。
Kamala Harrisはスピーチで語った。女性の参政権のために戦った人々がいたこと。その火を絶やさずに灯し続けた人がいたこと。その結果、初の女性副大統領が2020年に誕生したのだ、と。
すべてがおかげ様なのだけれど、当時の人々は未来、つまり彼・彼女らの活動の結果どんな社会になるのかわからないままに、ただ信じることのみをエネルギーとして、バトンをつないできたのだろう。ワンピースの空島編が思い出される。
最近は、贈与論についてよく考える。サンタクロースは親であることを知られてはならないように、贈与者は相手に気づかれてはいけない。受け取った側が、後になって振り返ったときに贈与であったと気づいた瞬間に、送り手の愛が初めて贈与として立ち現れてくる。そこにはタイムラグと、そもそも贈与であると気づいてもらえないリスクをはらんでいる。
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前置きが長くなった。僕はいま、宇宙業界で働いている。いわゆるディープテックと呼ばれる業界で、社会実装までに膨大な時間がかかる仕事。そのくせ、テクノロジーに対して誰よりも懐疑的な考えも持っている(と自覚している)。
「本当に豊かな社会を創ることに貢献しているのだろうか?」と。
自分が抱える感情の矛盾に引き裂かれ、長いこと苦しんでいた。感染症がまん延する中、何もできない自分。宇宙産業の発展を社会は求めているのだろうか。本当にこの道を進んでいいのだろうか。と、自問を繰り返していた。
しかし冒頭で触れたように、当人が存在しているかわからないままに、未来、つまり現代の僕らの食い扶持をつくり、発展を信じた人からのバトンを受け取っていることに気づいてしまった。返しきれないギフトを、僕はもう与えられてしまっている。それならば50年、100年先に贈り届けるしかない。
贈与を送る側が、(モノやそこに込めた想いが)相手に届きますようにと願うように、いつか生まれてくる世代の食い扶持となり、健全な社会の発展に貢献していますようにと、信じることしかできないのかもしれない。
いま感染症苦に直面する社会が要請することや、目の前の人々を救うことに貢献できないとしても、未来へとバトンを贈り届けることが道を切り開くということなんだと信じたい。
まだ世にないあらゆるモノを生み出す人々は、この世界のどこかに生きる人や、未来を生きる誰かにとってのサンタクロースなのだろう。そうやって人類は発展を繰り返してきた。
いくら手触り感が欠如していようと、その仕事に意味を見出し、いつかの未来に贈り届けることが、与えられた贈与の存在に気づいてしまった人の責任なのだと思う。
フランクルが「人生から何を期待されているのかが問題」なのだといったように、未来から何を期待されているかを問う態度こそが、本当の未来志向なのかもしれない。
いまようやく、探求の入り口に立った。
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