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いま改めて大学に通う意義について考えてみる

「入る大学を間違えた」と、あるとき気付いた。
真面目に通った最初の2年と、休学した1年、丸3年経って気付いた。と、言うよりは気付いてしまったという方が感覚的に正しい。

休学する前は大学の存在意義が全く分からず辞めようと思っていたけど、「辞める理由が明確でないならせめて休学にしなさい」と親に説得されて休学を選んだ。

大学生というステータスを捨てずに日本とは異なる世界に出会えたから、休学は正しい選択だったと今でこそ思えるし、説得してくれた親に感謝もしている。

それでも、いや、だからこそどの大学で学ぶかということは本当に重要だと5年を過ごして痛感した。振り返る意味も含め、改めて大学に行くことについて考えてみたい。

なぜ間違えたと思うのか

一言で言うと、刺激し合える仲間が不足していたから。それは、周りにいる学生のレベルが低いと言いたいわけではなくて、同じ領域に関心を持ちながら、異なる切り口やテーマ設定で学んでいる人が少ないことに由来すると考えている。

アフリカで過ごしていたときに目に飛び込んできた、あるいは体験したのは、資本主義の限界、人種差別、所得格差、環境問題、食糧問題。

そんな環境で過ごす中で学ぶモチベーションになったのは、
「この不条理な世界の構造が出来上がってしまった背景を知りたい」という好奇心だった。

休学前とは違い、学ぶ意欲を持って復学してみると、そんな知的好奇心を満たしてくれる授業はほとんど見つからない。見たもの感じたことを誰かに話しても「すごいね」と、どこか違う世界の人みたいに扱われる。

だんだんと大学に行かなくなり、美味しいコーヒーを求めて放浪する日々が始まった。気付けば40近いサードウェーブ系のカフェを飲み歩き、お陰様でコーヒーに関しては舌が肥えた(それと引き替えに1ヶ月で10単位を失ったけど)。美味しいコーヒーを飲みたい人は是非訊ねてほしい。

カフェには図書館で借りた本を持って行き、ひたすら本をメディアに自己対話をする。アフリカでかき集めた、声にならないテクストの断片たち。

本との対話によってかけらに枠が与えられ、少しずつ自分の言葉になっていく。そこでまた直面する、共有し合える仲間の不在。

孤独さと、消費社会に対する嫌悪に板挟みになっていた頃、『人間失格』の一節に強烈な共感を抱く。

ただ一切は過ぎてゆきます

校訓について

【大学とは、学問を通じての人間形成の場である】
これを言うと僕がどの大学に通っているのかが分かってしまうけど、今になってこの言葉の意味を痛感する。

学問という、絶対解や終わりが存在しないものに触れる中で、人間形成にも終わりがないことを知る。人格が完成されることはなく、学び続けることこそが肝要であり、最大の喜び。

批判的態度を身につけ、溢れかえる情報に左右されないリテラシーを得る。現代を生きる上で欠かすことの出来ない素養。

人間VSテクノロジーという構図で現代や未来の社会が語られる。
しかし僕は、批判的思考を持って世界と向き合い、問いと仮説を持って検証していくことが人間の仕事だと認識している。

そこには答えがないという厳しさと、競争からの解放と自由が併存していると思う。近代合理主義が台頭する中で、人間という存在にも合理性が求められてきた。機械を正しく扱い、生産性を上げて国家の役に立つことが美徳とされる時代。

それを助けたのは近代的な教育システムであり、正解を前提とした思想が根底にある。確かにこのシステムによって経済的に豊かな暮らしは実現したが、富の偏在と社会の分断、環境への負担という新たな問題を作り出した。

しかし合理性を機械が担保してくれる時代が訪れるならば、僕はこれを解放と呼びたい。かっこいい言葉を使うとリベレーション。
誰かや何かとの競争に怯えることなく、個々人が大切なことを大切に出来る社会。そのときに個人を拡張させてくれるのがテクノロジーではないか。

そのテクノロジーを扱う上で問われる倫理性とリテラシー、そしてもう一つキーとなるのがデザインだと考えている。ところがどっこいこの辺の解像度は粗すぎるのでまたそのうち。

決める、ということを放棄しないこと

大学生のうちに経験した方がいいことってなんだろうと考えてみて、色々と浮かんでは来るけど【自分で決めること】に集約される。

「何か大きな決断をせよ!」みたいなことを言いたいのではなくて、どんな些細なことであっても、最後は自分で決めることを放棄してはいけないということ。何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、誰と時間を過ごすか。

置かれた環境で多くが規定されてしまうかもしれないが、本当は全て選べるはず。アウシュビッツに収容されていたフランクルは『夜と霧』で次のように言う。

__つまり人間はひとりひとり、このような状況にあってもなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断を下せるのだ。典型的な「被収容者」になるか、あるいは収容所にいてもなお人間として踏みとどまり、おのれの尊厳を守る人間になるかは、自分自身が決めることなのだ__

そして上の文の直後に、ドストエフスキーの言葉を引用する。

「わたしが怖れるのはただひとつ、わたしがわたしの苦悩に値しない人間になることだ。」

最後に科学的な(退屈でつまらない)話を紹介すると、ある実験の結果、幸福度が高い人たちには共通してみられた要因があったそうで、それが【自分で意思決定していること】だったと。

自分のことを振り返ってみると、確かに色んな決断をしたことに気付いた。
推薦で入った部活を辞めること、休学すること、アフリカに行くこと。

いずれの決断の先に楽な道はなかったけど、後悔もない。

大学に行く意義は、決断する訓練を積むこと。

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