「哀れなるものたち」鑑賞後メモ

 主人公のベラ(エマ・ストーン)もそうなのだけれど、彼女やウィレム・デュフォー扮するゴッドウィンというキャラクターが暮らしているあの館に何匹ものキメラ的な生き物が登場するのはどういうことなのだろうかとしばらく考えてみた。個人的な結論としては、2つの全く異なる性質を持つ生き物がどのようにして組み合わされば新たな生き物として活動していけるのかということに対してゴッドウィンは深い関心を持っていたのだろうというところに落ち着いた。それを踏まえると、ベラが幾多ものセックスを乗り越えて(?)最終的には性愛的、自己愛的な欲望にある程度見切りをつけてゴッドウィンと同じ医者を志すようになる構成にもより納得がいくようには思える。

 序盤におけるベラの「幸せになる方法を見つけた」というセリフは彼女の関心がその時点では自らの欲望をどれだけ満たせるかという点に重心が置かれていることを端的に示している。しかし、それが続くのは彼女の体が実は自分の母親のもの、つまりは(脳みそ以外は)自分自身のものではないということに気づくまでのことでそれ以降は自分を俯瞰して見つめるような視点を獲得していく。そういった過程を通して最終的に提示されているのは、性愛的な欲望や執着に対して見切りをつけることで性差や世代の違いが存在するコミュニティの恒常性を平穏なものとして保とうとするひとつのあり方と言えるのではないか。ただ、それを象徴するものとして登場するのがキメラ的な生き物、特にベラの母親の元旦那はとんでもない顛末を辿るわけで凡庸な平和論のようなものとは遠くかけ離れており、ゴッドウィンの思想に囚われ続けてしまうという点ではむしろ変わらず非常に抑圧的、暴力的ですらあるとも言える。そこにおいてはやはりヨルゴス・ランティモスの作家性のひとつの側面が現れているのは間違いないだろうし、いま劇場で公開されている「憐れみの3章」の内容とも共振している部分ではあるだろう。

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