死の反対は生じゃなくて愛だと思う
わたしは孤独がきらいだ。
一生飼い慣らすことはできない。断言する。
最近のご時世は、"孤独=美" として捉えているように感じる。孤独ゆえの孤高。そうして崇められているカリスマは多くいる。
しかし、彼らは果たして本当に孤独なのだろうか。
まず孤独を飼い慣らすってなんだ。
齢を重ねるほど、自然と孤独に免疫がついてくるんだろうか。孤独の経験が心に抗体を作るんだろうか。
そんなの、いやだなあ。
もしいつか孤独を飼い慣らさなくちゃいけないなら、孤独の抗体を作ってくれる予防接種でも打ちたいくらいだ。注射の痛みはあの一瞬だけだからね。
ここで注釈だが、わたしは一人が大好きだ。洋服だって一人で見に行くし、勉強は一人で黙々としたい。おひとり様焼肉だって余裕。もし丸一日誰かと過ごさないといけないなら、間違いなく疲労困憊だ。一人にさせてくれと切に願うだろう。
でも、独りはだいっきらいだ。
独りとは抽象的に言えば心に雲がかかり陰ることだと思うが(それすら違ったらどうしよう)、それより具体化するのは難しい、というより不可能だ。なぜなら「独り」の定義は人それぞれで、人の数だけ存在すると考えているから。
わたしの場合、ほんの小さなことで心はその影に侵食されてゆく。
例えば、化粧のノリが悪くてふと鏡に写った自分がブスだった時、インスタのストーリーでみんながキラキラしていた時、すれ違った人が昔大好きだった人と同じ香りがした時。
突如、今までの心の余裕が嘘のように消えてゆく。雲隠れする月のように。
孤独とは、目には見えないものなのだ。
いくら周りに人がいても、当人が寂しいと思えば孤独。他人が判断できるものではない。
私は有難いことにいつでも電話越しで泣いてたら飛んできてくれるような親友だっているし、家族からは充分すぎる愛を注いで頂いている。たまに鬱陶しく感じてしまうくらい。笑
周りはこんなに愛で溢れているはずなのに、ふと、心が独りになる。
わたしはつまらない人間なんだ、欠陥品だ、、なんて悲観して。もうどうにでもなれと暴飲暴食して重いお腹引きづってベッドに飛び込んで。気づいたら太陽なんてとっくに沈んでて、何にもしなかったと自責。持病を何時間も手の中にいるスマホで検索して、もう死んじゃいたいな、なんて。
でもわたしは知ってる。
「死にたい」は「楽になりたい」だけだってこと。将来のこと、今のこと、いろんな悩みやタスク全てを投げ出したいだけだってこと。
そんな自分を救ってくれるのは、愛だ。どんなわたしでも受け止めてくれる愛が、とてつもなく欲しくなるのだ。
親の愛でも、友の愛でもない。でも、愛。
弱り切ったわたしの心をそっとすくい上げて、抱きしめてくれる、愛。
そんな愛を注いでくれるのは、自分しかいないのかもしれない。
孤独に殺られてカラッカラの心が、時間と愛で少しずつ潤されてゆく。夜が包み込む。あたたかい布団が癒す。
そして自分を大切にでき始めた時、死にたいという感情は消える。愛と引き換えに。
この世にこんなわたし全てを受け入れてくれる人なんていない。私以外。
だからわたしは今日も、自分を優しく抱きしめるんだ。