mane
行為や習慣、思考など本意なく真似されたら誰しも嫌悪感を抱く経験なのに、「この世は真似をしたことがない奴はいない」ぐらいに皆誰かに習って生かされている。料理、洗濯など日常生活なんて当然に、一人前にできているような仕事もマニュアルや先輩から聞くなり見るなりしてその方法を学んでいる。新しい発見も既存の組み合わせから成り立つものばかりで、何もないところから全く新しいものが発生することなんて煙と同じく滅多になく、実際は多くの土台からまた一段新しく積み上げている。
よって真似は必要で善。基本的には生きるためには行うべきもの。たまにいる「自分でなんでもしてきたから」と自負する先輩も誰かから結局教えられている。だから良いと思ったものは迷わず取り入れ、尊敬の対象はいくつも見つけるべきだ。今があるのは先人のおかげで自分がすごいわけじゃないということを忘れなければいいとして。
でもお前は真似しかできないのか。この世には若い頃から結果の責任受け止めながら孤独にナニカを作り上げる人が稀にいるからゾッとする。俺は、特に仕事なんかは、誰かの言う通りにしてさえいれば何も言われず責任もないから楽だなと逃げてきた方だから、確かにたかが会社員一人で行えることが無いに等しくても、いや会社員を選んで甘えているのは俺だったなと、それは刺さった。俺は俺が分からなくなっていたし、常識を指標に、個を殺すことに慣れた果てには自分で居る必要性が無くなっていた。
誰かに習いたいという尊敬は尊いが、ただ依存にも近い関係でいつまで誰かを必要とするのか。メンターなんてかっこいい言葉はいいから、いつまで他人を盾にするのか。
何か作りたいのならもう真似はできない。参考にするとしても、既存から組み合わせるとしても自分で考え行動すると自立が必要になる。尊敬を見つけるのでなく自分で、自分の中の自分を尊敬する必要がある。というかもうすぐ40だからいい加減頃合いじゃないか。
自分で行う結果は当然散々で、腹立つことも沢山。今もそう。上手くいかないのがデフォで、すぐに詰むかもしれない不安をガソリンにする生活。自己を肯定する暇なんてないし、悔しさからなんとか、惨めさからなんとか立つ生活。
そんな中でも一瞬だけは嬉しい。自分で行動できている自覚が自分を好きにさせてくれて胸は温かくなる。「作る」は自分と対面する作業で独り言のように話し合う。暇さえあればずっと自分と話している。自分に依存できている。大した結果を優先せず自力の過程に興奮するようになった。
「作る」は個人の過程で誰にでも生まれる生活習慣。有名なクリエイターやデザイナーだけのものじゃない。可能な限り「自分」をやればいいだけの作業時間にあって、俺は作るを崇高にしすぎて、真似を善としすぎたのかもしれない。最初から、堂々と「俺は作るよ」と周りに伝えればよかった。
比べやすい収入と人間関係は大したことのない独力に比例して減っているが、誰とも比べられない「自分」が育ってきている。生活もあるからこの結果をすぐに良しとするのは難しい。だけれど伸び代というか、他人を通さずに先が見えることは何よりも嬉しかった。