『個立有援・個立有縁』とは? を分解する②
昨日の続きです。
孤立無援という言葉に出てくる「仲間や援助する者」は実に曖昧で想像しにくいなぁと感じるという話を書きました。そして、なんだか他力本願だと感じると。
ちなみに、仲間をコトバンクで検索すると
1 一緒に物事をする間柄。また、その人。「趣味を同じにする仲間に加わる」「飲み仲間」
2 地位・職業などの同じ人々。「文士の仲間」
3 同じ種類のもの。同類。「オオカミは犬の仲間だ」
4 近世、商工業者の同業組合。官許を得たものを株仲間といった。
と書いてありました。
ここからは余談ですが、昨年の秋に「週刊新潮」に私の記事が掲載されて、SNSで名前も知らない、趣味の仲間とつながることも悪くないですよ、なんて一文に、某Y●hooニュースのコメント欄には「そんなどこの馬の骨だからわかんないような人に頼るなんて絶対に嫌」みたいなことたくさん書いていただいたんですが(笑)
実際に、そういったつながりから仕事を一緒に始めたり、ご近所同士だってことが分かって「コロナになったら食料を届けに行くね」なんて協定だって結んで仲良くやっているので、SNSは悪のような先入観を持たずに接続していくもの悪くないこと、新しいつながり方のひとつでもあると思います。
話を戻すと…
「孤立」する人びとの「背景」にあるもの
孤立している状況下にあるひとの多くは、自分から「援(縁)」を切り捨てたようなひと、そして周りから「援(縁)」を切り捨てられたひとも多いのではないかと感じます。
そういった状況になったことを「自己責任である」と言いたいのではなく、そうならざるを得ない「背景」や「きっかけ」が必ずあるのだと思うわけです。子どものころからすり込まれた「○○であるべき」「人に迷惑をかけるな」理論の呪縛、呪い、そういった背景から形成されてしまった性格の問題、障害や病気が隠れている場合もあるのではないかと思います。
多様性が生み出す排除
多様性、多様性と言いながら、新しい時代に追いつかない人のアップデートのきっかけを奪ったり、排除する人たちも多い、またアップデートそのものを諦めている人も多いと感じます。
仲間がいずに一人ぼっちで、援助する者のいないことを「孤立無援」とするならば、そういった、排除の中で自己責任ではどうしようもならないまま「孤立」する人びとの「背景にある理由」も拾い上げて解決していくことが「孤立無援」ではない様なのかもしれません。これは非常に難しいことだと感じます。
そして、それが『個立有援・個立有縁』と「≒」ではないということも分解してみて分かったことです。
完全に「孤立」しているひとを救い上げることは難しいと思います。第三者が、頑なになった心をこじ開けてまで介入することより、そうなる前に自分に必要な場所、本当に欲しているニーズに耳を傾け、接続する機会を作っていくべきだと思います。能動的な行動が難しいひともいるということは分かっています。しかし、家庭や学校、会社だけが「居場所」ではないこと、選択肢はたくさんあることを知っておくことは誰にでも必要なことです。情報を受け取ることが難しい人もきっといます。そう言った人に届く言葉、ツール、方法を創造していくことも『個立有援・個立有縁』の未来を創るには必要なことだとも感じました。
そして、私たちはもっと自分のニーズに素直に応えていく、そして言葉にして、行動していく訓練をし、学んでいかないといけないのかもしれません。