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教派の「違い」を「超える」とは?――思索と葛藤の軌跡




四年前に書き記した思索メモより



「教派の違いを超え、合同で~~する」という表現について。

この表現は往々にして、「教義的・教会論的ミニマリズム」「教義的妥協・リベラリズム」「宗教的無関心主義」の隠れ蓑として誤用されているのではないか――、そんな気がする。

私は深読みしすぎているのだろうか。もっとシンプルに広い心で受け止める(受け流す)べきなのだろうか。

でもやっぱり、教派の「違い」を「超える」ことが果たして可能なのか否かを考察するに当たっては、いくつかの問いが自分自身に対してまず、まっすぐに問われなければならないと思う。

問い1


そもそも「教派(denomination)」や「教派主義」というもの自体、合法的なものなのだろうか。

問い2


○○という教義に関し、A教派とB教派で相反する解釈がなされ、それが教義の「違い」となって信仰告白に現れている。

その「違い」は果して乗り越えられる種類のものなのだろうか。

それともこの種の相反性は、一方が「真」で、他方が「偽」であるという決断を私たちに否が応にも迫るものなのだろうか。

仮にそうなら、○○という教義に関し、「真」を信奉するA教派と「偽」を信奉するB教派が、その真偽の「違い」にあえて目をつぶり、真偽の「違い」を見て見ぬふりをしながら「合同する」という行為はいったいどうなのだろう。

これははっきり言って、真理なる御方イエス・キリストに対する一種の冒涜ではないだろうか。その外交的笑顔の下に、巧妙なる詭謀と妥協そして偽善が見え隠れしていないだろうか。分からない。

「そもそもなぜフェンスがそこに建てられたのかを知らないうちに、それを取り外そうとしてはならない。――決して。」(G・K・チェスタトン)。

問い3


教派の違いを「超える」ことは何を含意しているのだろう。それは教派の違いの「相対化」を意味しているのだろうか。

逆にいうと、教派の違いを「超える」ことが実際本当に可能なら、なぜC教派やD教派といった個々の教派は今日も存在しなければならないのだろう。

彼の属する教派がCでありDでない根本的理由がもはや見出せないなら、なぜ今も彼らはC教派という看板を掲げているのだろう。

CがCでなければならない決定的理由がないのなら、CがCであると言い続けることはキリストの御体のために益にならないではないか。そうではないだろうか。

それでは無教派になろうか。超教派になろうか。

しかし「無」教派というのも結局のところは、「単立・個人」教派という一つの教派だ。

そして「超」教派もまた、教義的・教会論的ミニマリズムを下敷きにした、霧の立て籠もる曖昧さと妥協体制なしにはそもそも成り立たない。これが私の経験してきたこと、見てきたこと。
  

問い4


私たちはできる限り、一致に向かい進んでゆかねばならない。

真理を犠牲にした「一致」はまことの一致ではあり得ない。

そして「まことの一致」への真剣真摯なる祈りと努力は、意味なき偽りの区分や惰性による区画化を突き破るに違いない。

その突き破りは徹底した自己吟味と己の信ずる信仰内容の検証、弁証、反証を通し為されるだろう。もはやそこに安全ゾーンはない。

それは私やあなたの慣れ親しんだ足場を爆破し、未知のゾーンに押し出す。

「まことの一致」は絶えざる自己との闘いであり、論駁であり、自己放棄の覚悟なしには為されない。

私たちが「一致」を作り出すのではなく、「一致」は受肉されたイエス・キリストの御体なる教会においてすでに存在している。

各自がそれぞれその「一致」に参入されなければならない。

おお主よ、われらを憐れみ給え。

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