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「じぶんの言葉で」
じぶんの言葉で、イエス・キリストと暮らす現実について書きたいと思っている。
「じぶんの言葉でイエス・キリストと暮らす現実について書きたい」という若月さんの言葉に出会ったときに、「じぶんの言葉かぁ、いいなあ」と漠然としたあこがれを感じた。
ひるがえって私にはどれくらい「じぶんの言葉」があるのだろう――、そう自問してみた。
これまでたくさんの優れた「他人の言葉」に触れ、それらを翻訳紹介してきた。多数の神学論文や聖書解釈にまつわる論考や信仰詩を訳してきた。
翻訳は、精読から始まる。それは相手の言っていることに全身全霊で耳を傾け、それを正しく理解することに心血を注ぐ行為だと言っていいかもしれない。そうして後に、私という管を通し、日本語人としての文脈に調和した訳文が生み出されていく。
でも・・私という管を通して生み出された訳文は、「じぶんの言葉」だろうか。
ここに私の見落としていた点があると気づいた。
私は訳文の言葉や思想が、あたかも自分の言葉や思想であるかのように錯覚することが多かったように思う。そしてその錯覚は時として根拠のないプライドや自己肥大的な妄想を己のうちに生み出してきたのではなかったろうか。
偉大な人物の言葉を立派に訳すことができたからといって、それらの言霊が自分のうちに留まり、受肉しているとは限らない。いや、自分に限って言えば多くの場合、上滑りしていた。
さまざまな本を読み、考え、学ぶ。聖書のみことばを通し、神のご性質やみこころを知ろうとする。最近では聖書アプリの発達により、聖句を引用すること、自分の文章の中に貼り付けることも非常に容易になった。関連する聖句をコピーしてペタッと「貼り付ける」。
でもブログ上に貼り付けたそのみことばは、私の「心」にも貼り付いただろうか。そのみことばは私の魂のすみずみにまで浸透しただろうか。ひとつの聖句が私の魂の中心を震わせるまでに私はおのれをむなしゅうし、みことばの統治(βασιλεύω)を魂に許しただろうか。
「じぶんの言葉」というのは、錯覚やプライドや上滑りや余剰や表層的な知識の陳列といったものが削ぎ落され、低く、貧しく、空(から)にされた自分、その無の自分にじわーっと沁み込んでいく「なにか」――、それが外に表されるとき、はじめてその誕生を見るのではないだろうか。カサカサの綿に乳がたっぷりと浸透し、やがて溢れ、滴り落ちていくように。
私は待たなくてはならない。目を閉じ、聞かなくてはならない。多くを表面的になぞる思考人生から、一つを真に見つめ、自分のものにしていく人生へと。単純で一途なことばを話す、単純で一途な人生へと。
言葉の洪水の中にあって、私の内側には「じぶんの言葉」が欠乏しているという己の貧しさを認めるところから始めたい。
おお、ロゴス(言)なる主イエス・キリスト、私は「じぶんの言葉」をつむいでいきたいのです。どうか己をむなしゅうし、おさなごの単純さで汝のまことを吸い込んでいくことができるよう助けてください。