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うちひしがれた者、失意の内にある者に注がれる優しいまなざし

短いエッセーを読みました。筆者の方は、あるクリスチャン家族が営む、旧いお店について書いておられたのですが、印象的だったのは、そのお店に対する筆者のあたたかいまなざしでした。

「最近、この地域も近代化が進み、ごった返してきましたが、そんな中にあって、このお店は以前と少しも変っていないように見え、それがなんとはなしに嬉しいのです。」


そしてその下に写真が載っていたのですが、たしかに、店頭の貼り出し紙も昔ながらの手書きで、ビー玉入りの瓶の形をしているラムネなどが今でも普通に売っていそうな、昭和を感じさせる雰囲気でした。


この50年の間に、目覚ましい店舗拡大があった気配もみられず、この店はいわば「知る人ぞ知る」系統の店なのかもしれません。

長い年月の間には辛いこともいろいろあったでしょう。大型チェーン店やモールが次々に建てられていく中、時代に取り残されていっているような寂寥感や焦りもあったかもしれません。

それでもこのお店は立ち続けました。―― 何のために?

彼/彼女がそこに立ち続けることには結局のところ、何の意味があるのでしょうか。そこにそのお店がなければならない理由や意味はどこから引き出されるのでしょうか。

20年以上にわたり、遠くからこのお店に優しい視線を注ぎ続け、しずかに見守ってきた筆者のまなざしは、人ひとりを慈しみ愛してくださる主なる神のまなざしを髣髴させました。


思えば、日本には小さな規模の教会が点々と建っています。

特に目覚ましい教勢拡大もなく、ウェスレーやホワイトフィールドや聖ニコライ時代のああいったエキサイティングな信仰復興もなく、これといって変り映えのしない単調な日々で織りなされている教会。

結局のところ、その教会がそこに在ることにどんな意義があるのでしょうか。必ずそれがそこになければならない理由など果たして存在するのでしょうか。

私は、それがそこになければならない理由が存在すると考えています。しかし多くの場合、その理由は神の内に隠されているのではないかと思います。――人間が誤って自らを誇ることのないように。

教会には一度も足を運んだことがないけれど、その教会の前を通りすぎるたびに、なんとはなしに安心感を覚えている地域の住民がいるかもしれません。

あるいは教会の建物の十字架を見て、「十字架・・そういえば三浦綾子さんの『氷点』なんていう小説があったなあ、、」と連想する人、あるいは「教会か・・そういえば幼稚園の時、みんなでお祈りしたなあ。なつかしいなあ。」そんな回想にふける人がいるかもしれません。

そしてこういった事は、個人の人生にも当てはまるのではないかと思います。

私たちキリスト者は神の栄光のために実を結ぶ者になりたいと願っています。そして集会を開いたり、祈ったり、教えたり、調べたり、書いたり、奉仕したりします。

でもその歳月の間には、落胆の沼に落ち込んだり、虚無感にさいなまされたり、全くやる気がなくなったり、精神的荒野を放浪したり、どうしようもない孤独感や閉塞感にうちのめされたり、方向性を見失ったり、懐疑に陥ったりすることもあると思います。

そしてその中でも一番苦しいのが、意味の喪失ではないかと思います。自分がやっていることも、そこに居ることにも意味を見い出すことができないと感じる辛さ。

でも、そんな時、変り映えのしないお店を優しくみつめる、その同じ〈まなざし〉が、失意に苦しむ魂に注がれていることを思う時、私の心は慰められます。

この記事を読んでくださっている全ての方々――特に現在、意味の喪失に苦しんでいる同胞の方々――に私はエールを送りたいです。

たといあなたが今そこに居ることの意味が分からなくなっていても、
あなたが今そこで為していることに
もはや何ら意味を見い出すことができなくなっている
その悲嘆の時にも、

神の御思いは尚も変わらず、
あなたの存在そのものの中に、
そしてその存在を通し、
外的・内的〈意味〉を この世界に付与しているということ、

そして今日もあなたの知らぬところで、神はあなた自身を用い、
遠くにいる人々/近くにいる人々に
なんらかのメッセージを発しておられるということ、
そのことをどうか忘れないでください。


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