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四旬斎「洞窟籠り」始めます!
三月三日からいよいよ四旬斎(Great Lent)が始まります。四旬斎というのは、キリスト教において主イエス・キリストの復活を祝う復活祭(イースター)を準備する聖期間です。
正教会では大斎(おおものいみ)、カトリック教会とルーテル教会では四旬節、聖公会では大斎節、プロテスタント諸教会では普通、受難節と呼ばれており、具体的にどのように準備するのかというのは各宗派で異なりますが、復活祭までの四十日間、神の前に心を整え、祈りと悔い改めと黙想の内に時を過ごすという点で皆共通しています。
復活祭までの期間、私はもぐらのように大地に近い自然児になり、「洞窟籠り」(デジタル・デトックス)をしようと思っています。
さて洞窟に籠る前に、この二か月にわたるNote生活を振り返りつつ、みなさんに、溢れる感謝の思いを書き表したいと思います。
まずはこの空間の中で、さまざまな方が意義深い発信をしておられることに感動しました。例えば、若月房恵さんが小説の形で日本におけるキリスト者の信仰や生き方というテーマに取り組んでおられることに感動を覚えました。(ココ。ココ。)
また東島カナさんがジェーン・オースティンを髣髴させるような軽やかで麗しい文体で、ご自分の人生と信仰の歩みを綴っておられました。俳人であった亡きお母様の想いを継ぐかたちでカナさんが俳句を始められたということも素晴らしいと思いました。(ココ。ココ。)
それから日本の名随筆家として私が以前から敬服していた首藤小町さんがNoteにご自身の随筆を載せておられるということを知り、それだけでなく、小町さんと個人的にやり取りする幸いを得ました。薫り高くどこまでも澄んでいる彼女の文章は、それ自体が「読むことのできる」美しい日本画です。宮大工西岡常一さんのことも小町さんから教えていただきました。(ココ。ココ。ココ。)
そして愛しい Sanaeさん。この方は、私の辿ってきた模索の道程を変わらぬ愛と優しいまなざしでずっと見守り続けてくれている恩人です。彼女は聖霊派クリスチャン、私は東方正教クリスチャンですが、私たちの間の友情は不変です。
また「キリスト教」マガジンに私の人生の証し等を追加してくださった『クリスチャントゥデイ』井手北斗編集長にお礼申し上げます。「両親は僕が生まれたとき、昔の旅人が星を頼りに方角を知ったように、人の役に立つ者になってほしいと願って北斗と名付けました」とお証に書いてあって感動しました。「名は体を表す」とありますが、北斗という言葉からは宇宙のひろがりと輝き、そして天を仰いだ先にある不動なるもの、確かなものを感じます。
その他、コメントを書いてくださった方、いいねを押してくださった方、いつもいいねを押してくださっていた方、共感して読んでくださった方、みなさん、本当にありがとうございました。
Noteを始めた当初、自分の辿ってきた人生道程を書き記す計画はなかったのですが、みなさんの温かいリアクションや支えに励まされ、じぶんの言葉で思いのたけを言い表す勇気をいただきました。一見無機質にみえるネット空間ですが、人のまごころやあたたかみは不思議と伝わってきます。
最後に、私の属する東方正教会のために共に祈ってください。ご存知のように私たちの教会は、同じ信仰を共有する兄弟同士が互いに銃を向け、殺し合うという未曽有の惨事のただ中にあります。「敵を愛しなさい」「兄弟たちよ、互いに愛し合いなさい」というイエス様のみことばが肉的な権力争いや派閥主義によりずたずたにされています。
この教会内紛争に勝者はいません。私たちは愛の神であるキリストの御顔に泥を塗り、世界の人びとに躓きを与えている点で、いずれの陣営も愛における敗北者だと私は考えております。キリストにある兄弟がもう一人の兄弟に銃を向けることを正当化した時点で私たちは負けているのです。愛のないところに神はおらず、私たちは主の前に大罪を犯し、今も犯し続けています。私はこれをインサイダーとして、教会の家族の一員として涙ながらに語っています。
東方キリスト教圏において四旬斎はもっとも厳かにして聖なる期間です。教会の人びともこの期間は慎ましく色を押さえた暗めの服装をしています。最後の受難週ではほとんど喪服に近い服の方々も多いです。数多くの典礼が行われ、イエス様が十字架に架かった聖金曜日には教会の鐘が一日中哀しく鳴り響き、国中が喪に臥します。教会の中では福音書の受難の箇所が次々と読み上げられ、挽歌が歌われます。
この期間、私たちは跪いたり手を床につけたり(伏拝)しながら「聖エフレムの祈り」という古代の祈りを唱えますが、その中に次のような一節があります。
「主にして王なる御方、どうか私が自分の罪を見、兄弟を裁くことのないようお助けください。(O Lord and King, grant me to see my own sins and not to judge my brother)」
ウクライナにいる兄弟も、ロシアにいる兄弟も、ギリシアにいる私たちも、皆が同じ時期に全く同一のこの祈りを捧げます。これでもかこれでもかというほど何度も捧げられます。
ルカの福音書18章に「パリサイ人と取税人の祈り」のたとえ話がでてきますが、上記の祈りの一節は自分の心の中に巣食っているあらゆる「パリサイ人」的なものが粉砕され、「遠くに立ち、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら『神よ、罪びとであるわたしを憐れんでください』」と祈った取税人のへりくだりの心が自分の中に育まれていくよう嘆願する祈りだと思います。
どうか御霊を通しこの祈りが私の内に、そしてずたずたになった私の教会の家族一人一人の内に沁み込んでいきますように。兄弟殺しの悪夢が一日も早い終結をみますように。
主よ、私たちを赦してください。この聖期間に、あなたの辿った十字架道を歩き、自分の罪だけを見つめ、兄弟を赦し、すべての人を赦し、受難のイエスのこころを胸にかき抱くことができますように。熱いあなたの涙で私の無感覚な心を生き返らせてください。あなたに対する燃えるような花嫁の愛を与えてください。そして復活の主の御腕の中で私たちもまた内的復活を経験することができますように。
この記事を読んでくださったみなさんお一人お一人の人生に主の慰めと励ましがありますように。試練や悲しみの中におられる方に天からの助けがありますように。孤独に苦しむ方に友が与えられますように。私たちの心が呻く時、嘆く時、どうぞ主よ、あなたの優しさといつくしみで私たちの心を包み込んでください。
どうかお元気でお過ごしくださいませ。