バイリンガルになる過程
四歳のプリキンダー(年中)の息子のクラスメートのフランス人の女の子は、英語が喋れない。先生にもクラスメートにも8割がたフランス語で話す程、フランス語が強い。それが何、ここは世界の人種の坩堝のニューヨーク!先生も友達も慣れている筈だし、理解して辛抱強く待ってくれる筈。
ところが先日、保護者面談の後、この子のお母さんから会いたいと連絡があった。我が家がバイリンガル家庭なのを知っているので、会って話が聞きたいと言われた。
学校の近くのカフェで会って話を聞くと、この前の保護者面談は、終始娘が英語を喋ろうとしないこと、フランス語で先生に話しかける事、先生の英語を理解している素振りがないこと、言葉が分からないから授業中のアクティビティにも非協力的という話題だったそうで、お母さんはお怒りだった。家庭で英語を使うように促されたとの事で、「家庭で英語を使えって、フランス語を捨てろって事?なんてことを言うの、冗談じゃない。」と。
そんな彼女の話を聞いて、私も長女が三歳でアメリカの幼稚園を始めた時の事を、思い出した。ニューヨークシティの真ん中の幼稚園に、英語がほぼ分からない状態で入園した長女。先生は新卒の若い女性に経験豊富な年配のアシスタントがついた。新卒の若い先生に、初めての個人面談で、「家庭で英語を喋って下さい。英語が分からな過ぎます。」とはっきり言われて本当にショックを受けたっけ。
九月に入園して、十月の個人面談でそう言われたのだけど、何と二か月後の十二月には家庭で英語しか喋りたがらない程、英語をすぐにマスターして、逆に日本語を忘れる勢いだった長女。ちなみに、先生にもっと家庭で英語を使えと言われた後も、一切英語は使わなかった。その後、経験豊富なアシスタントに道でばったり会った時、言われた。
「あなたがしている事(バイリンガル教育)は、子供への最大のギフト。あなたが諦めないでいて、嬉しい。他人の言う事は気にしないで、あなたの信じる事をやって。」
それ以降、この時頂いたこの言葉に、何度慰められ、元気づけられた事だろう。この後、紆余曲折を経て、子供たちの学校生活、バイリンガル教育、音楽教育をサポートしながら常に感じている事。
それは、この国の人に限らず、一般的な世の中の傾向として、多くの人にとってPatience(我慢する事、耐えて様子を見る事)は、大の苦手事項だという事だ。我慢をしたり、耐えたりしたくないために、どんどん新しいテクノロジーを発明していく世の中。欲しいものがワンクリックで何でも一日で手に入り、メールやテキストでも即返信を求める。
英語が喋れない四歳児がいる。まだ学校が始まって二か月で、もう先生が値を上げて、困っているのか。何故、しばらく様子を見てみようと思えないのかと考えた時、『しばらく様子をみてみようという発想がないから。我慢ができないから。』に尽きると思った。このフランス人のお母さんは、
「アメリカから出た事がなく、狭い世界に住んでいる人間の発想よ!」
と言っていたけども、そうなのかな。私は約25年前、中学生の時、カナダのプリンスエドワード島で語学学校に通いながらホームステイをした経験がある。その時、超がつく田舎に住む、カナダどころかこの島から一歩も出た事のない人々は、英語の全く分からない私に、それはそれは、親切にしてくれた。ゆっくり喋ってくれ、手とり足取り説明してくれ、英語を教えてくれ、私が発する英語を、いちいち大げさに褒めてくれたものだった。
私は、私の大切にしている言葉を、彼女に伝えた。
「あなたがしているバイリンガル教育は、子供への最大のギフトだと思う。諦めないで。あなたの信じる事をやっているうちに、子供は驚く程のスピードで、英語を学ぶから。」
子供が新しい言語を学ぶスピードには個人差があり、我が家の子供は凄く早い方だと思うのだが、一般的に、10歳以下だと遅くとも2年もあれば学校での英語が困らないようになる。
バイリンガル教育が、軌道に乗ってきた時に、親子の前に開ける世界。
それは、広がり続ける子供の視野。二カ国語で自由自在に本を読み、作文が書けて、自分を表現できる喜び。その後三カ国語目を学校で学び始める時に、言語を学ぶコンセプトを、自身の経験を通し理解しているため、驚くスピードで習得していく姿。学校の先生や友人から、『あの子は特別』という羨望の眼差し。母国語しか喋れない家族と自由に交流でき、祖父母の住む国の学校にも不自由なく通える。そしてそこから得る経験。毎日一緒に、母親と語学を勉強した、その時間。すべてが、宝物なのだ。
それまで数年の道は険しいものだけど、トンネルの先には素晴らしい世界が待っている。頑張って!
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