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ゆけ!われら検索依存症(サーチャホリック)

カーチコチカチ♪カーチコチカチ♪カーチコチカチ♪
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情報化社会の進展、そしてスマートフォンの普及により、我々は疑問があればその時、その場で検索することができるようになった。

Googleで調べるという意味の「ググる」はすっかり一般的な言葉になり、英語辞典にも「google(検索する)」が掲載された。

いまや、疑問に思ったことを調べもせずに他人に聞くのは良くないこととされる。
「他人に聞く前に自分で調べろよ」と。

そして、インターネット検索が日常化した今では、中毒的にインターネット検索をしてしまう人も現れた。

私はこれを「サーチャホリック」と名付けた。
search(検索)+ holic(中毒)=searchaholic(検索依存症)だ。

どうだ、それっぽいだろう。
(Googleで検索したところ、サーチャホリックという言葉を使っている人は見受けられなかったので、流行語大賞を取ったら私が表彰されるはず)

さて、サーチャホリックという言葉は否定的なニュアンスで使われる。
原典たるアルコホリック(アルコール依存症)、そしてワーカホリック(仕事中毒)と同じだ。
訳し方にもよるが、依存だの中毒だの、どちらも良い意味ではない。

それを踏まえてなお、言わせてもらおう。

私はサーチャホリックだ。

小さい頃から知りたがりだった私は、当時、疑問があれば「なんで?」とか「どうして?」とすぐに聞いて周りの大人を困らせていた。
そんな性根のまま育った人間が、インターネットという便利な検索ツールを使わないわけがない。

私は分からないことがあれば、すぐにインターネット検索に頼る。
権威ある専門家が掲載している情報や官公庁の発表はもとより、WikipediaやYahoo知恵袋、TwitterなどのSNS、インターネット掲示板からも情報を収集し、疑問の解決を図るのだ。
そして実際、多くの疑問が解決されてきた。

インターネット検索は非常に有用だ。
膨大な情報データベースから知りたい情報を素早く引き出すことができる。
しかし、先ほども言った通り、サーチャホリックという言葉は否定的な文脈で使われる。

サーチャホリック批判の代表的なものは、検索依存によって「考える力」が減退する、というものだ。

疑問に直面するたびにインターネット検索に頼ってしまうと、それを解決するための論理的な思考力が育たないということだ。

これは正しいように聞こえる。

「5×7」とかの簡単な計算問題の答えや、仕事で必要な企画のアイデアなんかをインターネット検索に頼るようになってしまえば、それは確かに問題だろう。
思考力を発展させるためにも、答えにたどり着くまでのプロセスは確かに大事だ。

ただ、サーチャホリックを思考力の減退に結び付けるのは少し乱暴に思える。

そもそも、インターネットはそんなに万能ではない

インターネットで検索したって答えが出ないことも沢山あるだろう。

例えば、国家に不満があるからといって、
「国家転覆  やり方」「クーデター   初心者」
と調べる人がいるだろうか。
……ちょっといるかもしれないのが怖いところだが、普通はそんなことを調べないだろう。
なぜなら、検索をしたところで望む答えは出ないと分かっているからだ

インターネットで調べても分からないことは文献などを参照するだろうし、そうでなければ、結局は自分で考えることになる。
疑問とは普通、有機的で複雑なものだ。

インターネット検索でダイレクトな答えが出なくても、解決のための糸口を得ることはできるだろう。
先ほどの物騒な例をまた持ち出すなら、国家転覆をするつもりなら、過去のクーデター事件を調べたり、協力者になり得る人を探すことはできる。

だが、それだけだ。
インターネット検索によって、思考の組み立ての材料を手に入れることはできても、検索自体が人間の思考に置き換わることはないのだ。

この点で、サーチャホリックだからといって、それがすなわち思考力の減退に繋がるということはない。

そしてもう一点。
疑問には「自分で考えても分からないこと」がある。

ニュースや観光情報、明日の天気、電車の時刻表、好きなバンドのライブ情報、そんなことは考えたって答えが出るものではない。
Wikipediaに載っているようなこともそうだ。

つまり、未知の情報を得るため、辞書を引くようにインターネット検索を利用するときには、思考力は問題にならない。

むしろ、重視されるべきは疑問に対する姿勢だろう。
疑問の「持ち方」とでも言うべきだろうか。

例えば、一日に50回インターネット検索をしている人と、一回も検索をしない人。
数字だけを見れば、間違いなく前者はサーチャホリックだろう。
つまり、批判者の言う「考える力が足りない人」ということになる。

だがどうだろう。

一日に50回検索をした人は、一日に最低50個の疑問が生じ、そしてそれを解決しようとしたのだ。

私はその疑問に対する在り方、つまり、色々なことが気になってしまう点を評価したい。

なぜ夏は暑いのか、なぜ車のタイヤは黒いのか、なぜ星は光るのか。
身の回りのことでさえ、その原理や理由を考えてみると疑問が尽きないはずだ。

気に留めていなかった事象が疑問になる、その小さなひらめきを大事にしたいと思うのは、私自身がサーチャホリックだからだろうか。

ただ、あるがままを受け入れる姿勢もまた、評価されるべきだろう。
一日に一回もインターネット検索をしない人の、ミニマルな生活に憧れもある。
疑問に思うことが多ければそれだけ疲れるのだ。

さて、まとめよう。

サーチャホリックが思考力発展の妨げになるのは、少し考えれば分かるようなことを調べまくる場合だけだ。

そもそも、インターネット検索の目的は「考える力」を育成することではない。

仕事で企画を考えるときに、インターネット検索で見つけたアイデアをそのまま流用したりするのは、もはや働き方やネットリテラシーの問題だろう。

広大なインターネットには、思考パズルのピースとなり得る情報が大量に存在する。
これは先に言った通りだ。
そしてその情報を適切に活用することによって、思考レベルを何段階も上げることができるのだ。

インターネット検索は思考力の減退に繋がるどころか、その増強に寄与している面があるとさえ言えるだろう。

もちろん、気をつけるべき点はある。

インターネットの海を漂う情報は、かなりの割合で間違っているのだ。
それこそ、我々が思っているよりも。

事実誤認や出典の間違いによる情報はもとより、単に社会を混乱させることを狙ったデマ情報も多く出回っているので、しっかりと情報源を確かめて利用しないと痛い目を見る。
はっきりと誤りではないとしても、誤解を生む表現になっている(あるいはそう意図されている)ことも多々あるのだ。

この問題は、インターネット社会では個人が気軽に情報発信ができることに起因する。

だが、耳で聞けばヨタ話でも、活字になると不思議と信用してしまうのが人間の心理だ。


インターネットはとても便利だ。
だが、主従関係を取り違えてはならない。
あくまでも人間が主で、インターネットは従。
インターネット検索で得られた情報こそが真実だと盲信するようになってしまえば、それはもはや検索依存者ではなく検索信奉者である。

本当に忌避すべきはサーチャホリックではない。
”インターネット万能主義”なのだ。

疑問に思うこと自体を大事にし、好奇心を愛せ。
道具たるインターネットに喰われるな!
サーチャホリック万歳!!



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カーチコチカチ♪カーチコチカチ♪カーチコチカチ♪


迎えがきたようだ。



コンナモンデスカネアンドウサン。

(安藤ケンサクは僕の住んでいる湘南の開発会社が製作したゲームです)

そしてサーチャホリックの男は「検索万歳!」と叫ぶと親指を立て、インターネットの海に沈んでいった。
そのとき立てられた親指をモチーフにしたのが、今日の「いいね!」ボタンである👍👍👍

(おわり)


自己投資します……!なんて書くと嘘っぽいので、正直に言うと好きなだけアポロチョコを買います!!食べさせてください!!