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いろんな顔を持つと言うこと

 小学校、中学校、高校、大学、社会人。ライフステージが変わるごとに付き合う人も変化していく。現在進行形で社会人というライフステージにいるんだけども、一部の人を除いて大学以前の同級生に会うのがしんどい。


 今でも鮮明に覚えている出来事がある。それは高校のとき、文化祭か何かでクラスの出し物としてダンスをやることになった。高校時代といえば部活と勉強だけに集中すると言い聞かせていた私は、それ以外のことには極力関わらないようにしていた。そんな斜に構える感じだったから、もちろん友達らしい友達はいないに等しかった。そんな状況に淋しさを感じていたんだろうと思う。クラスと仲良くなろうと例の出し物に積極的に関わろうとして、放課後の練習にも参加した。


 その練習ではっきりどんな言葉をかけられたかわからなかったけど、練習に参加する私に「え、そんなことやる人だったんだ」的なニュアンスのことを言われた。


せっかく、仲良くなろうと一歩踏み出したのに背中の骨をぐにゃぐにゃにされる感じがした。そのときに感じた「あなたらしさ」とか「キャラクター」とかその人を決めつけてしまう固定観念に違和感を持っていた。


 人には人によって見せる顔を使い分けている。友達、学校、親、恋人とかそれぞれの役割の応じたその人がいる。だけど、これをうまく説明できなかったし言語化するのもできずにいた。そんなときに平野啓一郎さんの「分人」という考え方を知る。それはざっくり言うと「個人」を細分化したものだ。


 なぜ、私はあのとき固定観念に押しつぶされたのか。その前提にあるのが「個人」という考え方だ。人間は「個人」という最小単位でできている。だから二面性は二重人格とかで受け入れられない。さっきも書いたように友達、学校、親、恋人それぞれに見せるその人が違うことは理解できるはずなのに、思い込みで人は首尾一貫して変わらない、変わるのは悪だとなってしまっている。
 でも違う。人によってみせるその人は違うはずだ。そうなるのが「分人」という考え方だと説明ができる。気がする。


 今時点では概念的に理解しているだけで本質的に理解できていないからひとまずここまでとしておく。

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