黑世界で見つけた星の光とその轍
黒世界
まさか涙することになろうとは……!
いよいよ配信している最後の舞台作品の視聴になりました黒世界の感想を残します。
LILIUM→マリーゴールド→TRUMP(TRUTH/REVERSE)→COCOON(月の翳り/星ひとつ)→ヴェラキッカ→SPECTER→グランギニョル→TRUMP(漫画版)→黑世界(雨下の章/日和の章)※デリコズ・ナーサリー3話まで視聴済み
と見てきました。以降はこれらの作品のネタバレありで感想を残していくので、ご理解の上お読み進めていただけますと幸いです。
クッション代わりの前回までの感想↓
まえがき
この文章を書いている私は普段LILIUMのシルベチカ役、モーニング娘。‘24(2024.09.11.現在)小田さくらさんのオタクをやっています。
ですので視聴方針は『小田さくらさんが演じられたシルベチカの解像度をあげたい』というのがメインです。よって感想でもシルベチカ関連の情報を多く拾う傾向にあると思います。ご承知おきを。
感想
ここにも書いてある通り、感想を残すか迷いました。理由は「劇で描いたこと以上に言及できる感情がなくないか?」と思ってしまったからです。
私はこのTRUMPシリーズをほとんど情報を入れずにネタバレなしのフレッシュストーリー観察(話の展開や構成を予想してる)を楽しんでいました。そんな中、これまで観てきたTRUMPシリーズにおいて、私が受けた黑世界の感想は「描かなくても問題ない作品」だったんです。視聴後にコロナ禍で急遽企画されたもので、脚本が話によって作者が異なる背景を知り納得します。
なるほど、アンソロだな(オタク脳)。
物語は六遍あるうちの①④⑥をTRUMPシリーズの脚本を手がける未満さんが描き、それがそれぞれの章テーマとなる構成をとっています。
雨下ならリリーが旅に出るまでの背景、シュカとの記憶。日和であればリリーの旅の終わりと、家族について。
全体を通して物語に連続性というか、感情の統一感がないように見受けられた印象がここからきてたのかという気持ちです。
そのぶんリリーという人物に対しての想いが募ります。
だって、ストーリーの根幹に関わる、話をひとつ進めるということをしないで、ただただリリーという少女がどんな信念を持ち永遠の命を生きるのか。それだけを描くためだけの舞台だなんて。彼女が、リリーが愛されすぎてて泣けてきました。こんなことってあるんだ。
厳密に言えば「永遠の命」というところから全ての物語は始まっているので、TRUMPシリーズの最後は永遠の命を持つクラウス、ソフィ、リリーの話に収束していくと思うんです。だからキーパーソンであるリリーが今後する(であろう)重要な選択において観客が感情移入しやすいバックボーンを整える、それが黑世界の役割だったんだと言われれば、それはそれなんですけど。例えるなら進行上は背景コマに「――1000年後」なんてモノローグを入れればいいところを、六週にわたって丁寧にサブキャラの過去回を見せられた感覚です。
自分が思った以上にリリーは重要人物で、これからを感じさせる役割を担っているのだなと思いました。
……これ、終わります?(書き手は完結作品一気読みが本当は好き、結末が用意されていると安心するので)
とまあ、そんな杞憂はさておきしてせっかくなので各話の感想も残していきたいです。
私はこの黑世界、知っている鞘師さんばかり目で追ってしまっていたので、今まで以上に狭窄した視野で語ることになっています。ご了承ください。
雨下の章
①イデアの闖入者[作・末満健一]
まずタイトルで「待って」となりませんでした?初め私「侵入者」って聞こえていたんですよ。で、後から確かめたら闖入者だったんですね。唐突に思いがけずのようなニュアンスが含まれるのは大事です。これによってリリーにとって前触れもなく現れたシュカという男の印象付けがされます。
そしていよいよ隠さなくなってきたかというワード『イデア』です。ヴェラキッカを見た時に『饗宴』の話をしましたが、ここでも登場プラトンでした。
イデアというのがなんなのかというと(ご存知の方は読み飛ばしちゃってください)決して変化することのない物事の真の姿です。まだ何言ってんのかわからんですよね。
私たちがこの世界で美しいと感じるのは、真の美しさというものを知っているからだ。また、この世界に円いものはたくさんあるが、真に丸いものはなく不完全だ。イデア界というところに完全な『美』や『円』というものが存在していて、人間はイデアにある完全な姿を想起することで、現実世界の美しさだったり円を判断しているにすぎないんだ、という考え方です。これをイデア論と呼びます。
まとめると、物事の本質や原型となる完全なものはイデアに存在し、私たちが今生きている世界で認識できるものはそのイデアにあるものの模倣であるということです。
そのイデアの中でも最も優れたものが善のイデアであるとプラトンは提唱しました。『国家』という著書の中で善は太陽のようなものだと記します。太陽が持つ光によって私たちは事象や対象を知覚することができています。そもそも太陽がなくて真っ暗じゃ何にも見えないから、そこに何かがあることにすら気がつけないよねってことです。そして光と温度を与え、文明や生命を育むのもまた太陽です。「善のイデア」は、太陽が対象を照らすように存在するたくさんのイデアを照らし、私たちがイデアにアクセスすること、イデアを想起することを可能にしています。
プラトンはソクラテスが師なので善=知の探求というのが根幹にあります。なので善のイデアを想起できることこそ私たちに知性が備わっていることだと考えたのですね。
さらにこの想起について『パイドン』という著書では、肉体が存在することによって魂に不純物(欲だったり感情)が生み出されてしまう。死というのは魂を失うことではなく、イデアを把握するための魂の浄化であり、そのカタルシスを経ることで魂を解放しているに過ぎないんだ。肉体は魂の牢獄であり、死は解放、魂は不滅である。そんなようなことを考えました。
ふぅ、ひとまずここまでにしましょう。
本筋と関係ない話をしてきましたが、私は『イデア』というワードが出てきた時点でこのプラトンの思想を念頭に置いて黒世界を見ていました。
なので雨下の章はイデア、これはTRUMPシリーズで言い換えると、完全な世界や不滅の「不老不死」に闖入してきたシュカの話であることがわかります。なので"ウル"を使い擬似的な不老不死を体得したことがこの時点で予想されるわけですね。
リリーにシュカは冗談めかして『我は守護者なり』と言いますが、大層な者ではないと訂正し『傍観者であるべきだ』と言います。〜であるべきというのはイデア、すなわち理想を形作る思考でもあります。ヴラド機関にいた時にリリーの人体実験の傍観者であったシュカの役割の不変さも印象付けられていますね。
表題を回収しリリーの旅の目的を明かしながらその実、物語としてはシュカの魂からの解放が一話から主題となっているのです。雨下の章はリリーの話と見せかけたシュカの話なんですね(夏目漱石の『こころ』が先生の話と思いきや私の話であるみたいなもんです)。
黑世界は本を手に持った朗読劇という手法をとっていましたが、私はこれが想起(もうすでに起こった出来事を語っていること)のモチーフになっていてテーマに嵌った巧い演出だなと思っていました。リリーの『夢の中のよう』というセリフひとつとっても人体実験の凄惨な過去からの逃避、想起することによる魂の浄化作業、あとはリリーを演じられている鞘師さんがどこでも寝られちゃう寝るのが好きな方、の三つも要素が含まれてて思わず拍手です。
シュカは劇中歌で愛は死と言いました。最終的に“ウル“が切れてシュカはリリーへの罪悪感から解放され肉体から魂が離れます。ですがこの一文によって、シュカがリリーの傍観者であったのは単なる罪悪感だけではなく、そこに愛があったからだと知ることができるのですね。
魂の解放が死だとするなら、肉体の解放は自由なんじゃないかと思いました。これはヴェラキッカのオチにも関わってきますし、イニシアチブのあり方な気がします。魂の解放が叶わないものが肉体を牢獄に閉じ込められるイニシアチブを掌握できる。これは偶然なのでしょうかね。なんだか脚本書かれている方はここまで考えている気がしてなりません。
シュカはヴラド機関の人体実験から逃し、傍観者であることでリリーの自由を護りました。どちらも満たされなかった状態から一方を叶えることによって雨が上がります。これはシュカとの関わりによってリリーがスノウ、すなわち自分がファルスになる前を思い出して善のイデア、太陽があったことを想起することができたことが示されます。
②ついでいくもの、こえていくこと[作・宮沢龍生]
ばたんきゅーするリリーかわいいね。
というのが一番強い印象なのですけど、物語としてはとても綺麗にまとまっていました。
人間の営みを描いた作品で、リリーが何者か知らないから受け入れてくれてる中で共有した秘密。鬼灯親方は元ヴァンパイアハンターですが、ヴァンプのリリーに人間と同じように接してくれる。この知っていながら優しさを与える行為は、のちに川の氾濫に巻き込まれた嘘を見破る達人の鬼灯親方にリリーが『橋は完成した』と嘘をつくことに繋がってきます。ヴァンプの世界は血の繋がりが最重要視されている中で、ここで描かれた人間は血縁者や家族でなくても技術の継承でもって関係が築かれる対比でした。
タイトルの『ついでいくもの、こえていくもの』は石をつぐ遺志を継ぐと、橋を越えると死を超えるのダブルミーニングにするためのかな表記になってるのでしょうね。
他で感じたことは固有名詞をすごい出してくるな〜です。今までクランすらギムナジウムとサナトリウム呼びをしていて、しっかり地名が出てきたのなんて『ネブラ村』なんかのストーリーに大きく関わってくる時ぐらいのものでした。ですが『トール川を超えてサウザントスーの街へ』と言っていたり、スッと世界観広げられてきてびっくりでしたね。ここでようやく「脚本書いてる人違うのか?」と気がつきます。
こういう情報は舞台以外のコンテンツ(小説とかパンフレット)で逐一明かされたり、利用されたりしているのでしょうかね。脚本が違うところの情報は今後のシナリオ進行でどこまで影響を及ぼすことになるのか、ちょっと注目ポイントになりました。
③求めろ、捧げろ、待っていろ[作・中屋敷法仁]
コミカル回でしょうか。
アイドルのように女性に熱い視線を贈られるヴァンパイアハンターの雷山と、その雷山に夢中になる老女マルグリットの一コマです。
わざと自分の身を切り刻んでヴァンプを誘き寄せてそこを救ってもらおうとするマルグリット。助けることをやめられない雷山。恋は身を滅ぼすっていうけど、本当に滅したね、ちゃんちゃん。って感じでした。
スーパーアイドル雷山とその熱狂的な支持者たちの茶番を見せられるリリー。元モーニング娘。のエースとしてご活躍されていた鞘師さんの前でやるのもまた乙なものです。
物語で言えば、初めの七五調の語りから入って時代劇のような、古めかしい感じ。風の吹くまま気の向くままで寅さんかとなったり、女寡なんてもう日常では滅多に使いませんよね。前との温度差で笑いの陰に隠そうとしていますが、人間のエゴの部分が現れていたように思います。例えるなら小さい子が口から落としてしまった飴玉に寄ってきたアリを踏み潰すみたいなグロテスクさですね。悪意なき暴力が理不尽です。それをエンタメにしている感じがまたなんとも。
最終的に雷山がヴァンプにやられ、そうなったら女性たちは次の雷山のような男に走り、最後にその骸に蛆がわく。まで途中考えていたのですが、そこまで教訓めいた話でもなく、夢(だったと思いたい)オチでスカッとする謎の気持ちよさがありました。
そして鞘師さんが雷山のセリフを復唱していた部分はアドリブなんですかね。口元がリリーじゃなくて普段の鞘師さんになってたような笑
自分の思うままに死を選べたマルグリットにリリーは芽生えた感情が嫉妬かと思いますが、ここであったことが全部繭期の幻だといいのだけれどとして締めます。ひとつリリーの嫉妬の感情は押さえておきたくなりますね。だけどそれも幻、だったのかもしれないですが。
④少女を映す鏡[作・末満健一]
五倍の速度で年老いる少女、鏡の中に閉じ込められた永遠を生きるリリー、心の形が見える少年。
装置としてはシンプルな分、他に情報を入れてもいっぱいにならず入ってくることができました。シュカをここでもう一度出すことによって観客に衝撃と疑心を抱かせながら短編続きのストーリーの中に謎を残すことに成功しています。
アイダの症状はそんなこともあるんだなという驚きです。こんな設定も盛り込まれてきたので自由度が想像以上にあるのだなと感じました。そんな見た目は老婆中身は乙女なアイダとリリーは恋の話をします。そうか、リリーの恋か……。言われて全く考えてなかったことに気がつきます。LILIUMで描かれたサナトリウムはファルスやキャメリアをはじめ男性もいるクランで女の子だけではなかったですし、ヤン・フラとの出会いもあったことを考えると私が認知している人物以外との関わりもあったはず。そうじゃなくてもマリーゴールドのように同性に恋心のような感情が芽生えた可能性だってあるし、忘れたなんて言わないでちょっとでも思い出してくれ!!になってました。とてもとても興味があります。
TRUMP、もしくはFALSEになった時点で命や時間なんかの一般的に大事とされるものに関心を示さなくなる中で、クラウスだったらアレン、ソフィならウルのようになんらかに執着を示すじゃないですか。ですがリリーはそれがないんですよ。スノウが大切な友だちだったと覚えていても、じゃあスノウのかわりを見つけなきゃとかにはならない。
実をいうと、黑世界はリリーにとって執着を見つけて生きる希望を見出す話かと冒頭部分では思っていたんです。それがシュカであるのかなと、ここまではそんな見方をしていました。『僕は君で君は僕なんだ』みたいなことをしたりするのかと。明らかにクラウス、ソフィとは違う性質でリリーを描写するのを感じています。ここの差異は岐路に立たされた時に重要な判断要素になるので大事にしたいです。
嫉妬、悲しみ。リリーにとってあった感情を取り戻す旅になってきましたね。繭期であるのに気が狂えないリリーだから、行く先々での出会いを真正面から受け取ります。永遠の命を得てしまうと、命というものを自分のだけではなく他の者に対しても軽く扱いがちです。ですがリリーはそこの重さがFALSEになる前と変わらないところが、彼女らしさになっているような気がしています。
⑤馬車の日[作・降田天]
馬車、と出てきて1番最初に思ったのは「馬車の比喩」か?またプラトン?でした。『パイドロス』に出てくる魂の三分説を説明する時に用いた比喩ですね。
魂の姿を二頭の馬とその御者になぞらえました。右手の馬は賢くていうことをよく聞いて、左手の馬は傲慢で鞭打ってようやく従う性格です。
御者 = 理知
右手の馬 = 気概
左手の馬 = 欲望
というのをこれで表現したんですね。
馬と御者は羽が生えていて、右手の気概を持った馬がイデアに向かうために上へ飛ぼうと頑張るのですが、欲望の左手の馬が足を引っ張るんですよね。御者は理知でこの二つをコントロールする役割です。ここで欲望に負けてしまうと新たな翼が生える一万年後まで千年周期、十回の輪廻天性を繰り返します。ですが三回連続で愛知の生涯を送った魂だけは例外的に、その三千年のみで翼が生えて飛び去っていけるらしいです。
ということが頭の中にあったので、その流れで「御者やってる人がメインの話でループ物か」と予想していました。まあ、謎解きの装置としてはままあるのでちょっとこじつけかも。定番は守りつつも、タイ、雨乞い鳥、ループ、死んでなお夢の中の母と会話を交わす(→繭期のヘーゼルを彷彿とさせる)など、小物使いが多様なシナリオでしたね。
テーマの拾い方がそれっぽかったので未満さんの脚本かと途中まで勘違いしていたのですが、想像以上にミステリ要素が強くて思い留まります。
最後に取り残されたヘーゼルは、雨乞い鳥は罪を冒した罰として太陽に身を焼かれたから水を求めるのだとメイプルから教えてもらった話をしました。
これは雨乞い鳥(=ヘーゼル)が御者として太陽(=イデア)に近づこうとし身を焼かれて、雨を求めて鳴く(罪悪感)という暗喩になってます。複雑!!
あと忘れられてそうだからつっこんどきますが、不老不死だからといって殺しても罪悪感を抱かないのはどうかしてるぜ。リリーのことなんだと思ってるんだ。
⑥枯れゆくウル[作・末満健一]
手持ちのウル(ファルスの薬)が枯渇したという意味と、ウルとなったシュカがその身が枯れるように最後を迎えたという二つの意味がかかったタイトルですね。
リリーのサナトリウム後になにがあったのか、シュカとの関係が明らかになります。いやちょっとしんどいな……。いたいけな少女になにしてやがるんだよ。ただでさえ心の傷で苦しめられてる最中、肉体すらも弄ばれて……誇り高い精神の持ち主なのに、あんまりだ。
こうなってしまったのなら、この人体実験でヴラド機関がなんらかの収穫を得てなかったら本当に許せないかもしれない。
シュカはリリーがスノーフレークの花を見て泣いたことに衝撃を受けます。
『僕は君で君は僕なんだ』をやりそうなシュカとリリーがそれをしなかったのは、リリーが永遠の命に縋ることなく永遠の命によって黑い世界を旅し続けることを強調したいからだと考えます。シュカはウルに希望を見出しました、これは決定的な違いです。意図してここを同じく描かなかったように感じます。
シュカがリリーに『狂えずにいた優しくて哀れな人、なぜ心を持ち続けようと』と問えばリリーは『あいつみたいになりたくなかった。私はソフィじゃない。』と答えます。
リリーからすれば望んでもないのに永遠の中に閉じ込められた憎き相手ですからね。リリーの中でのソフィ評が見えてきました。この「〜みたいになりたくない」って考え方、鞘師さんとダブって見えたりしてここらへんの自分の感情ひっちゃかめっちゃか。
狂った方が楽なのにそうしないリリー。
先に『馬車の日』の項目で魂の三分説の話をしました。人の魂は頭部に理知が宿りそれは御者のようで、胸部に気概が宿りそれは右の馬で、腹部に欲望が宿りそれは左の馬だと。これが正しく働くと「知恵」「勇気」「節制」になるとプラトンは考え、さらにその三つが調和したときに「正義」になると説きました。これを四元徳といいます。
私はリリーがあの凄惨な目にあったと知ったときに、プラトンの『国家』の正義に関するいくつかの検討が脳裏に浮かんだんです。トラシュマコスは「正義とは『自分より強い者への利益』であり、不正は『自分自身への利益であり、正義とは一種の暴力であって不正は自由を形成する」と主張しました。要は正しくあろうとして虐げられるくらいなら不正して利益得られた方がいいに決まってんじゃん、ってことなんですけどそれって「正しさ」の言葉の意味からかけ離れていますよね。リリーはその身にありとあらゆる苦痛を与えられても、旅の中で復讐に走ったり自分もまた無差別に命を奪うことなく正気を保ちました。
また、同作でポレマルコスが「それぞれの人に借りたものを返すことが正義である」と応答したことを考えます。こちらは日和の章でその様子がよく現れていたように思いました。
雨があがるのはサナトリウムから続いた、運命に巻き込まれた状況からの解放のように感じます。リリーが五話で「そうやって私だけじゃなくてあなたも夢の中に閉じ込めている(意訳)」と言っていますが、LILIUMでの出来事からヴラド機関でのあらましを経て悪夢から覚めた。その象徴が雨上がりなのかな。
プラトンの哲学で攻めるなら太陽(=イデア)が顔を出し、理想が見えるようになった。これによって日和の最後で星に手を伸ばすシーンが描かれた。とも読めますね。
だけどもっとしっくりくる解釈が残されてそうなんだよな〜。他の方の感想に全てを託します。
日和の章
①家族ごっこ[作・末満健一]
雨下の章の冒頭でリリーは幻想の父と母にクランで出会った友人の話をしていましたが、またストレートに『家族ごっこ』ときましたか……。
馬小屋で寝ていたところを元血盟議会の議員のエルマーに拾われて、その娘ラッカと遠縁の子ノクとの共同生活が始まります。特にラッカには『ママ』とまで呼ばれて慕われます。リリーだって不老不死になったの齢十五前後ぐらいですよね?なのにパパと結婚して家族になったらいいよとか言われるぐらいこの世界は早婚なんですかね。おそらく、家庭においていなかった母親の役割をリリーに求めたラッカの欲が家族になってもらうことだったのでしょうけど。
結局その生活も永遠には続かず、優秀だったエルマーを狙って血名議会の対立派閥が送ってきた殺し屋から、リリーは不死の力とイニシアチブでもって家族を守ります。このときエルマーがリリーに子供達を託そうとするまで信頼ができてましたね。
その後のリアクションは三者三様で『バケモノだ』と言った敵対心を向けるノク、『君はいったい』と中立を保つエルマー、『待ってママ行かないで』となおも家族であろうとしたラッカ。
LILIUMでもそうでしたが、リリーはあのサナトリウム、そしてこの家族ごっこの共同幻想を自ら終わらせる宿命でも背負っているのか。
黑世界はリリーの旅を描く形をとっているため、どこかに定住することなく人やヴァンプと出会いと別れを繰り返していきます。その中で「家族」というのは帰る場所や故郷、居場所をイメージさせる役割を持つのではないかと思うのです。しかしながらリリーは雨下の章の冒頭でも言ったとおり実の両親の記憶はほぼなく、物心ついた時を過ごしたクランはソフィのイニシアチブによってコントロール下に置かれたものだった。なので、スノウは持つ自分と親友だった頃の記憶をリリーは持ち合わせていないんですよね。
チェリーは自分がリリーの都合よく作り出した幻覚であることを認め『さしずめ私はあんたの罪悪感』と声に出さずに言っていました。ですが、リリーは孤独を生きることになった黑い世界の中でチェリーというイマジナリーフレンドを生み出したのは罪悪感からだけではないと考えます。
リリーは自分のことを気にかけて世話を焼いてくれる相手を求めていたのかな。不老不死という体になってしまっては、年端もいかない少女で庇護されるべきリリーという扱いはされず、物のような、それ以上に尊厳のかけらもない残酷なことをされるのだとすでにリリーはヴラド機関の行いで知っているのです。
だからこそ自分を自分として扱い、接してくれる誰かに飢えていた。自分がFALSEだと知ってなお、リリーとして接してもらえる存在への憧れがあのチェリーという姿で現れたのだと考えます。
もうすでに一度リリーは家族ごっこを自分がイニシアチブで命じた死によって破綻させています。自らの手で自分以外の者の永遠の繭期を終わらせ、自分が壊した自責の念に苛まれています。
この「罪悪感」は紫蘭と竜胆の方がイメージとして強くあるように感じます。
これは紫蘭と竜胆がリリーにとって監督生で監視と罰則を与える立場であったこと、加えてファルスに賛同し永遠の繭期を望んで生きることを願っていたのにも関わらず、自分が殺めた罪悪感を二人の姿が引き受けたのでしょう。
観測する者が雨下でのシュカの罪悪感から、リリー自身の罪悪感に日和ではすり替わってますね。なので日和の章ではよりリリーの自己との対話で内面を見せられている感覚になります。
②青い薔薇の教会[作・葛木英]
一番ストーリーとして好みでした。話に大きな仕掛けがあるわけでもなく、ヴァンプの罪と罰をじっくり感情描写していきます。
繭期のノスカータは罪のない神父の妹ルイーザを『一度人間を殺してみたかった』という理由で殺めた罪があります。繭期が明け、ノスカータは神父の前に現れ『自分を殺してくれ』と懺悔し迫ります。しかし、神父はその要求を受け入れず、赦しを与えるために自分が心から赦せるまでそばにいることを課すのです。
神父ははじめにこう語り、そして最後に『ノスカータ本当は私は君のことをまだ許してはいない』と本心を明かします。このことから許されざる罪を犯したノスカータと同様に、神父もまた救いを求めている転変の最中にあります。自分を救いたいがために赦さねばとしている神父ですが、罪を犯したものと犯されたものの隔たりはそう簡単に埋まるものではありません。
自然界に存在しない青い薔薇の花言葉は不可能でした。しかしそれはいつしか可能となり奇跡や夢叶うといった意味を持つようになりました。
殺されたがっている者を殺すのは罪を犯された者にとっては真の罰にはならず、救いにもならない。残された者が幸せを感じるときに犯した罪と亡き者の悲しみが忘れられない記憶として蘇ります。
劇的な変化や絵空事の赦しで終わらせるのではなく、罪と罰を変わらないものとして残すのが綺麗事の救いを与えてなくてとても好ましかったです。ここでリリーの心情が垣間見えるのがまたいいんです。赦しを乞いたいはずのみんなは私が殺してしまったから永遠に赦されることはないんだ。この苦慮に自分で赦しを与えずに、罪悪感を抱えたまま永遠の時を生きる決意をするのがリリーの気高さを象徴するかのようで本当に好き。ファルス仲間のソフィとの決定的な違いはここですよね。罪を背負うかどうか。
神父は絶対的な神の言葉ではなく、赦しも罰も自分とノスカータの問題だと他の人たちに主張します。当事者以外が口を挟むなってね。傷みも苦しみも感じるのは当人たちです。結局罪というのは神が赦すのではなく、罪を犯されたものが赦す他ない。これは原初主義へのアンチテーゼになりうる精神性なので、リリーの旅の記憶として覚えておきたいです。彼女は永遠の罪と戦う者なので。
地に置かれた青い薔薇の不可能を手にし「綺麗」というのは、死が不可能となったリリーの黑い世界に奇跡を見せる星になる綺麗な表現でしたね。
③静かな村の賑やかなふたり[作・岩井勇気]
なーーんも考えずに見られる、最高!以上!
声量がぶちやべえ人とどうでもいいこと話して偏見の塊を浴びる謎テンションのリリー。ソーシャルディスタンスキスとか時事ネタも入れてきて、遊び心がありますね。あるある偏見ネタ聞いてリリーが幼子のように手を叩いてはしゃいでるの可愛かったな。
④血と記憶[作・末満健一]
『家族ごっこ』から二十年後のラッカとノクとの再会です。
ギルド無所属のヴァンパイアハンター、ガヴィーの奇行によって人質に取られたラッカは、リリーだけにその手を汚させまいとガヴィーを銃殺します。
この血濡れた手で大好きなリリーを抱きしめようとしたときに、リリーはイニシアチブでラッカから自分の記憶を消し去るのです。ここはリリーの自らはエルマーに差し向けられた暗殺者を手にかけた際にその血に染まった手で抱きしめにい行かなかったこと、行けなかった弱さがそうさせたのだと思います。『家族ごっこ』にリリーは幸せを感じていたのに、それが『ごっこ』で偽りだと心の中では疑っていた。しかし、たったひとつしかない命をかけてまで“こちら側”に来てしまったラッカを見て、彼女は本当に自分と家族であろうとしたことに気が付きます。これを「なかったことにする」描写はとても興味深かったです。
ラッカの信用に応えられないリリー。『青い薔薇の教会』で神父が罪と罰は私が決めるものだと言いましたが、何がラッカにとっての幸せかを決めるのもリリーではなくラッカだろうと、ノクは叱責します。
ガヴィーが仕掛けた爆薬が溢れる坑道に閉じ込められ、イニシアチブでリリーの記憶を失ったラッカが瓦礫に巻き込まれるのを庇ったノクとリリー。ノクは即死し、リリーは不死者のため、潰されたまま再生がうまくいかずにしばらく下敷きになったまま崩壊と再生を繰り返します。
ここの鞘師さんの身体の使い方が人間じゃない動かし方しててすごかった。骨がどっかにいって弾性を備えた肉と組織が踊るように脈打ち、生き物になるために散らばった心臓を結合しているような感じです。これで伝わらないので是非もう一回見てください。多分私が真似しようとしたら肩と肘が脱臼して直立した状態で地面に手がつく負傷者になること間違いなしです。常人には無理でしょあんなの……。
そんな中、水脈へと逃げたリリーの血から再生が始まり、そこに混ざり込んだノクの血で意識が一時的に混ざり込みます。ノクは『記憶を返して欲しい。思い出を彼女に』と願い、消えました。
しかし、リリーはチェリーに記憶を返しに会いに行くのかと問われると「会わない」といい旅の続きに出て、このお話は終わります。
検討したいことがいくつか。
まず、最終話のリリーの心情変化の布石になっているシーンである。これが一点。
そしてヴァンプの血って混ざったら意識が入り込んだりするんだね?という新事実です。ノックが死んでなお現れたのは霊的なアレだったのか、それとも血の影響でそうなったのか。後者で確定していいのならば、ソフィ・アンダーソンというファルスの血を摂取して生まれたファルスのリリーは、どこかにソフィの意識が闖入していてもおかしくないことになりません?また、ノーマルヴァンプが同族の血を啜るのは人間みたく血球の凝集や溶血が起きて死ぬ可能性があるので無理かもですが、TRUMP、ないしはFALSEは血を体内に取り込むことによって人格の保存が可能になるかもしれません。この性質はちょっと面白いですね、今後使われるようなものなのかは置いておいても。
⑤二本の鎖[作・来楽零]
第三話とは違うタイプの周りが見えてないカップルでしたね。
二本の鎖からDNAのポリヌクレオチド鎖、二重らせん構造で家族愛を越えた愛情を抱いてしまった男女の駆け落ちの話かと思いましたが、違いました。単に使用人とお嬢様の身分差の恋のお話でしたね。
イニシアチブを相互にかけて共依存はどっかで使われそうだなと思ってましたが、このような愛の形もまた一興です。
リリーは永遠の繭期を生きていて、もうすぐ繭期が明ける二人を見て大人になれない自分を顧みます。リリーがずっと少女のままで、蛹のようと自らを喩えたのは永遠から出ることができない自らの命の閉塞感もありそうです。
イニシアチブを鎖と表現したのはこれが初出だったか?呪いであったり、愛を捕らえる鎖であったり、イニシアチブが持つ効力は本当に様々ですね。
こんなにイニシアチブを掌握する事例が横行してるのならもっと対策があって然るべきだと思うんですけど、そこのあたりは制度がザルなんですかね?舞台演出的な事情で首元噛んでますけど、もし指とかでもイニシアチブ握っちゃうんならヴァンプの歯医者、めっちゃ危険職業だろうな。肌が露出してなきゃセーフなのか?
⑥百年の孤独[作・末満健一]
渾身の朴さんの幼女から老婆まで〜!(声優さんとしての演技の妙が光り輝いてました!)
リリーは百年の時を経てラッカに『リリー』の記憶を返します。ラッカの元を去ったのが彼女が十歳、再会が二十年後なのでおよそ三十歳、そこから百年なので百三十歳ほどが吸血種の長寿になるんですね。現代の人間と同じくらいなのか。
ラッカにとっては失ったはずのものを再び見つけることが叶いました。これはリリーがラッカとした『ずっと手を握ってて』の約束と、ノクとの『ラッカに記憶を返して』の約束、さらに言えば『子どもたちを頼む』のエルマーとの約束も果たしたことになります。家族であった三人の記憶を永遠の旅の供にして。
失われてしまった家族、仲間、サナトリウムでの自分の罪悪から、時を超えて家族を得る「不可能」を叶えたリリー。その奇跡は希望となってこれまで見てきた黑い世界の旅の最後に星に両の手を伸ばすところで終わります。
これはリリーが黑世界から抜け出した暗喩になってますね、死は希望じゃないと言っていましたが、最終的にリリーはファルスに会いイニシアチブを使わせようとするのが目的としそうな予感を残して最後のページは閉じられました。
ですがこれ、私の中で見て育ってきたリリーの像はそうしない気がするんですよね。五話でアントニーに『心を操って自分の思い通りにする。最低ね、あなたも私も』と言いました。自分の行いが最低だと知ってなお、ここまで罪悪感を抱えて永遠を生きてきた同じ苦しみを分かちあうファルスに、その罪を求めるのでしょうか。
ノクがリリーの深い記憶の中にあった少女純血はこう歌います。
故人のことを星になると言ったりしますが、リリーが見てきた死(思い出)に手を伸ばす。ノクが言ったように永遠の孤独の中で時を共にした誰かとの思い出がリリーを一人にしないように、善意や優しさ、愛に手を伸ばすという優しい見方もできてとても好きです。
ちなみにLILIUMではファルスの一人称視点で歌われており、
という詞になってます。これもリリーとファルス(ソフィ)が同じ血から産まれてなお、別の意思を持つFALSEであることが示唆されてますね。
情報整理・期待
シルベチカ、いました!!!!!!
うれしい……ほんとにうれしかった。しかも二回も出てきた、リリーがシルベチカをまだ忘れていなかった……。せっかく私が書く感想文ですので私情の厚切りサンドでいきましょう。
『私を忘れないで』がリリーにとって罪か赦しか。黑世界のメインテーマはここにあるかと思います。
シルベチカの花言葉でもあり、その人がリリーの時間と共にあった存在証明たりえます。永遠の命を得てなお狂うことができないリリーが、これから出会う者との思い出を抱えて生きるのは、得たものを失う畏れを手放して生きるのよりも遥かに難しい。
『私を忘れないで』はリリーにとって呪いになったのか。答えはNOでそこに希望を見出したからこそリリーはラストで星に手を伸ばしました。こうやってまだリリーの中でシルベチカが咲いている。リリーの中で彼女は、あのクランでのみんなは永遠に枯れない花となって咲き乱れている。リリーの孤独の中にみんながいる。ひとりじゃない。
もうこの感情に支配されて泣きましたよ。号泣です。
そして道中、精神の表層に現れた“チェリー”の存在。そこくる!?いやまさかでしたよ、そこ持ってくるんだ。個人的にLILIUMの感想書いたときにお気に入りの動き方するキャラですとか、前の感想でなんでダンピールとして描いたか気になってるなんて言ってましたけど、こんながっつり出てくるとは。
リリーに世話を焼いてくれる存在の一番身近なイメージがチェリーだったから、も理由としては成立しますけど、まだ欲しい、もっと繋がりが欲しい(強欲なオタク)。まあ、中の人に思い入れがある書き手の趣味が大いに含まれていますが、これまでの情報を整理してもリリー、スノウ、シルベチカ、チェリー周りの血と記憶はもっと深掘りされてもいいと思うわけです。だけど自分がこれまで見てきた舞台の情報ではまだ満たされない。
ということでLILIUM -リリウム 新約少女純潔歌劇ーを見ます〜!配信以外に手を付け出したのでおしまいです。だけど、シルベチカ絶対主義溺愛派閥としてここだけはどうしても押さえておかねばならない、もはや使命感です。
スノウ役を演じられた浜浦綾乃さんは無印LILIUMのシルベチカ役を演じた小田さくらさんが親友と公言されるほどの仲ですし、小田さんも新訳観劇されたようなので観ます(動機が不純すぎる)。
あとがき
鞘師さんのリリー、石田さんのチェリー、小田さんのシルベチカがまた見られる日がくるかもしれない。天文学的な確率にはなりますが、それでもシナリオからまだキャラクターが生きている可能性を感じ取って私は息絶えそうです(書き手は見えないものを見ようとして望遠鏡をのぞきこんでます)。
あともう少しだけ続く繭期の旅になりそうです。
ここまで読んでくださって反応くださる繭期の先輩、ありがとうございます。盛り上がってきました。残りも楽しみたいと思います。後でみなさんの感想と考察も絶対読みに行くんで。
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