眠れる森のビヨの見解
さあ、眠れる森のビヨの話をしよう。
感想については前回の記事にて語ってきたので、本記事ではストーリーについてあれこれ考えていく内容になっています。
以降は激しくネタバレを含みますので、読まれる方はご承知おき下さい。
森ビヨと考察
はじめに、この文章の目的を根底から覆す発言をすると考察しません。
これだと書き方が悪いな、正しくは考察ができない類の話だと私は感じました。
ですので、これから語られるのは私がなぜこの眠れる森のビヨにおいて考察ができないと思うのか、になります。
結論から言うと夢の話だから、になります。それがどう言う意味を持つのかを整理し、掘り下げていきましょう。
夢の定義
個人的に夢という題材を扱う作品を見るときに注意しておきたい事柄は、主に3つあると考えます。
①誰がみているか
②なぜみてるのか
③夢と現実の境界
この①②③の固定概念をどう植え付け、どのように利用するかがストーリーにおいて肝要で、中でも夢と現実の境界線をどこに引くのかをはっきりさせないことにはなにも始められない。そしてそこに非現実的要素がどこまで含まれているかをどう捉えるかで見方が変わってきます。
眠れる森の美女を例にあげましょう。カラボスがオーロラ姫に針で死に至る呪いをかけたことを動機は説明できたとして、なぜそうなるのかの原理は“魔法だから“以上に論じることができません。
私はこのお話をあくまで私たちと同様な世界線で、現実世界に即した物理法則において存在する、そんなお話だと考えています。ヒカルは超能力を持って時空を超えたりできないし、霊感凄まじく死者と会話もできたりしない、どこにでもいるような高校生。
そしてヒカルがみた夢というのも黄泉の世界やパラレルワールドと繋がってるんだ、なんてファンタジーの世界のものではなく、眠っているときに自分の潜在意識が働いてそうあるように見えているだけのもの。目が覚めれば「夢だ」と認識できるものとして定義します。これに関してはヒカルが冒頭と終盤で『僕が今日見た夢はこうだ』の発言によって定義が補強されていると思います。
さて、ここで改めて整理しておきましょう。
夢とは
→見ている人間の潜在意識の世界
誰がみている
→ヒカル
なぜみている
→現実逃避
夢と現実の境界
→を、次の項目で確かなものにしていきましょう
確定できる事実
私が森ビヨを考察できないものとしている理由に夢で起こることに論拠を求めるのが難しいからと、ヒカルが信頼できない語り手だというところにあります。
夢の世界とヒマリが語る現実世界の齟齬を台詞から見ていきましょう。
ヒマリは同い年の女の子
眠れる森の美女で王子(フィリップ王子)役
他にもツムギの手によって舞台セットが壊される、10分バスに遅刻しないなど、実際には起きていない出来事が夢では存在します。そもそもヒマリがいること自体がすでに異質ですし。
このことから、夢の世界での発言、行動、登場人物がそのままの人格で保持されているという信頼性は低く、そこに理由をつける根拠としては弱いです(ヒマリの声が聞こえる人、聞こえない人とか)。
ではこの劇において、断定できる事実とは一体なにか。
実は2つのシーンでしか見ることができないと私は考えます。
それが
事故に遭いバスの中でヒカルがツムギとの会話
意識が回復した後に車椅子姿でヒマリとの会話
肉体と精神と時間軸が一致した場面、つまり現実世界でのお話は全編通してこの2つだけ。
ヒカルとツムギのバス事故直後の会話
これによって凄惨なこの出来事は夢だと思い込み、そのイメージを最も強く与えたのがツムギとなりました。
対してヒマリはというと
この約束が現実世界の未練となったため、メタ認知をしたキャラクターとして描かれることになりました。
願いを強く受け持った2人が夢と現実、それぞれの象徴的な役割を表す人となったのです。
森ビヨを考察するときに大きな論点になるのが、この2人をどう見るかと、モノローグの取り扱い方にあると思います。
前者への見解はこれまで語ってきたとして、後半の私のスタンスを示しておきますね。
この夢の世界での主観はヒカルで固定されているものとして見ています。ですのでヒカルのモノローグは明晰夢的な状態。例外としてバックに電子音(心電図のSE)が鳴っている時は現実世界の病室(ヒカル視点では最初の場面のみかな?)。
それともう1人、ヒマリのモノローグがありますが、私はこちらは昏睡状態だったヒカルのお見舞いに行っていた時の語りだと考えています。電子音が鳴っている時の台詞は実際に口に出した言葉でそうでないのは心の中の感情という分け方です。
こうしたときに考えられる反証としては、眉間の皺をヒマリに指摘されるシーン直後の
ここの構成を整理すると。夢の世界→ヒマリのモノローグ→回想→現実世界となっています。
この『余計なことをしてしまったとすぐに後悔した』は、前のシーンを受けて、目を覚ましてほしいはずのヒマリがヒカルが夢の世界を楽しめるように助言をしたことによる後悔、と考えるのが通常です。が、真実を知った上で回想のちの病室での心情の吐露の流れを考えると、ヒマリがヒカルを10分引き止めたことにも言葉がかかっています。自分がわがままを言わなければ避けられたかもしれない事故への後悔、とも取れます。ここは叙述トリックですね。
潜在意識と行動原理
わかりやすいところで言うとヒカルが書いた脚本の眠れる森の美女です。
ラストのシーンでも演劇部のみんなに言われたように
ヒカルにとっての理想の結末は夢の中で幸せに暮らすこと、のように感じられます。
居心地のいい演劇部のみんなと青春の日々を過ごせる夢の世界から覚めることができずにいた。
現実世界の象徴であるヒマリが現れて話すのは、夢の世界での時間の経過や眠りを意識させる場面です。
(遅刻しそうな眠たい朝/脚本が上手く進まずに停滞している[バックに秒針のSE]/地区大会が終わったあと/意識を失った次のシーンなど)
これには過ぎていく時間への自問自答の要素も含まれていると考えます。
ツムギとヒマリはそれぞれがこちらに来るように手を差し出します。これはヒカルがヘリコプターの音を聞いたときに頭上に手を伸ばした様子とリンクして希望をどこに見出すか、の選択だったとも見ることができます。
次はヒカルは何を選んだかについて考えていきましょう。
ヒカルの選択
この劇は簡単に言えば、ヒカルが夢と現実どちらの世界で生きるか選ぶお話です。
結末はご存知の通りヒマリがいる現実世界を取るわけですが。
この選択を、もう少し深掘りして考えたい。
冒頭に定義した②のなぜ夢をみているかに、私は現実逃避としてさらっと流しました。しかし、夢でのヒカルにとってはそこでの日常こそが現実でした。
ここであらすじを改めて見てみましょう
この今という言葉。
ヒカルにとっての今は演劇部の部員として青春していた日の精神と、事故から5年が経過し浦島状態となった肉体の今、2つあるのです。
さらに夢での登場人物はヒカルにとっての幸せを問いかけていました。
単に夢を見続けるか覚めるかの2択ではなく、言い換えればヒカルにとっての今と幸せを決断させる話でもあった。
こう考えると、眠れる森のビヨのどこに救いを見出すべきか、私は迷子になりました。
この選択は何かを得るためのものではなく、何を失うかになっているから。
夢の世界を選んだ場合、演劇部のみんなとの今を得るかと思いますが、それは生命活動の放棄です。ツムギたちとバスに乗り続けていたらどこに向かうのか、の疑問にも通ずるところがあるかと思います。バスを走らせる時間が増すごとにドーンという脈打つような頭痛が酷くなる。この頭の痛みは過去を思い出すときに起こるものの他に、ヒカルが事故のときに自らの身体が衰弱していく症状でもあると考えます。これ以上進めないブロック大会以降の日常で強く時間を意識させられているストレス(もしくはまた大会が始まる前の朝にループ)と、ヒカルの肉体が死に向かっている、どちらでも取れますね。
現実世界を選んだ場合、今を生きることが叶うかと思えますが、ヒカルはそれに幸せを見出せているのか。
夢の世界で選び取った幸せは、今のヒカルにとって光となっているのか。
夢の中、バスの車内でヒカルがツムギに真実を知ったと確信を突くシーン
ここでは夢に向き合うことで『黒い光が差し込む』と表現します。
そして目覚めた後、車椅子に乗ったヒカルはこう歌います。
夢の中で演劇部の一員として県大会を優勝したときには、みんなでこう歌いました。
夢の中のヒカルは事故で自分が助かったと知っても喜ぶことはありませんでした。生への執着よりも、自分1人だけが助かったことへの苦悩が勝っていた。
現実世界へと移り、ベンチで2人並んで座って話しているときにヒマリはこう言います。
私たち観客が目撃したヒカルの夢の話は、この時点のヒマリもすでに知っていました。
はじめとおわり、ヒカルの語り出しは『僕が今日見た夢はこうだ』です。意識がない状態から目覚めた後も、同じような夢をヒカルが見ているのだとすれば、あのとき選んだものは、ヒカルが見た光はなんだったのか。
ヒマリが去って、1人になって、みんなが現れ、こう歌うのです。
ヒマリへと手を伸ばし、ぼやけたものでもいい光を感じてくれてはいないか。手を伸ばすのは、伸ばしたのは、幸せと手を繋ぐためではなかったのか。一度きりしかない人生を楽しむため、心から笑うために君だけのストーリーを創るためではなかったのか。
笑え、笑っててくれ、ヒカル、頼む。
そんな気持ちで2週目に入り確認をしたとき、眉間に皺寄ってるじゃないかよ!!ヒカル!!!!
もうダメでしたね、つらい。
そこに増えていた役名のない夢の世界の姫の姿をしたヒマリがいることにも。
ヒカルの今がまだここにはないことも。
最後に
見ていて、1番最初に引っ掛かりを覚えたのはヒカルのこの台詞でした。
なんでわざわざ歩行スピードについて急に語り出したのかと、不自然さを覚えました。
これは最後の一幕で車椅子で現れるヒカルの姿との対比になっています。
地面に足がついていないことから、ヒカルが夢の世界でヒマリを幽霊みたいとした発言と繋がってくる。自分だけ違う世界にいるような孤独感。不自由さや、身動きがとれない様子。
失った時間への怖さ。
ただ、そんなヒマリはヒカルと別れるときに
と言って、同じ時間を歩こうとしています。
ヒカルはそれにまた明日。と返します。
きっとかつての約束と同じように、ヒカルはそれを守ろうとするでしょう。
今はそれだけ分かればいいです。
いつの日か未来は一つに繋がると信じて、ヒカルが朝を繰り返せますように。