『シー・ウォンツ・トゥ・カムホーム 』【第1章】
第1章 グッドモーニング
目覚めた私はいつもと同じ場所に向かう。窓際の特等席だ。
コーヒーは飲まない。あれは私には劇薬すぎる。その代わり、温かいお茶を淹れ、椅子に腰かける。
また一日が始まってしまった。ぼそっとつぶやく。つい呟いてしまうこの言葉はもはや日課である。決して毎日が辛いことの連続であるわけではない。暖かい日差し、快活な市場の声。申し分ない朝と穏やかな日々が続いている。ただこの毎日が連続していることに対する安心感にくぎを刺したい、その一心。
その後は健康的な日課を行う。
朝食を作り、食す。歯を磨いて、服を着替える。
7:00。
家を出る時間だ。私は家を出て、自分の自転車をこぎだす。この町は小さい。20分も自転車に乗れば横断できるだろう。移動手段は自転車で事足りる。朝の日差しは目に良くない。少し遠回りだが、海岸線を通って、迂回しながら職場へ向かう。
この時間のビーチには観光客はまだ訪れていない。サーファーはすでにボードを立てかけ、日常に戻り始めている。よって、海は裸のまま静かにたたずむことになる。
しかし、どうだろうか。
この日の砂浜には、何か慌ただしさのようなものを感じた。
異物の混入。自分の服から他人の匂いがするかのような。
私は自転車を停め、砂浜を歩いてみることにした。
風景はいたって同じである。いつもと違うものは何もない。
そう思った。ゆっくり周りを見渡す。
前言撤回である。異物だ。
洗濯機だ。大きなドラム式洗濯機が砂浜にポツンと置いてある。一度ゆっくりと目を閉じてみる。開ける。ある。
間違いなく現実に存在していることを確認し、私はそれに近づく。近くで見ても間違いなく洗濯機である。洗濯機は洗濯物の投入口を海の方に向け、まるで海を見つめるように佇んでいた。
ボタンがあり、そこには『wash(洗う)』の表記があった。その隣にはひねるスイッチがおいてあり、様々な洋服の種類が書いてある。Tシャツ、ズボン、靴。
しかし、その中に一つ見慣れないボタンがある。『come home(かえる)』。普通の洗濯機にはこのようなボタンはないはずだ。洗濯機は砂浜にある。コードがつながっている様子もない。
興味本位で私はそのボタンを押してみた。
しばらくするとその洗濯機は振動し始めた。ゴトン、ゴトン、ゴトン。そして振動は徐々に大きくなる。ゴトゴトゴトゴト。もちろん私は驚きを隠せなかった。目を見開いたまま動けない。唖然としてその洗濯機を見つめ続けた。しばらくすると振動が収まった。カチャン。投入口が開く音がした。
そもそも私はなぜ最初に中を確認しなかったのだろう。そんなことを考えながら、中を恐る恐る覗き込む。
卵だ。
中には文庫本サイズの卵が一つ入っていた。白くて大きな卵。それを取り出してみたが何の変哲もない。その卵に耳を近づけてみる。
「あなたは誰なの?」
声がした。私は驚いて振り返ったが誰もいない。
「僕だよ。君の卵だ。」
その声は卵から聞こえた。卵がしゃべっている。しかし、卵がしゃべったことよりも大きな疑問が先に浮かんできた。
「私の卵ってどういうこと?」
「君がボタンを押したんだ。僕は君の卵だよ。でもずっとじゃない。僕は家に帰らなければならない。」
その卵はそう続けた。
「理由になっていない。」
「それでも僕は君の卵なの!」
卵が声を荒げた。ふつう生き物は最初に産声を上げるものだ。
卵の言動はませた子供みたいだ。決まったセリフしか話せない子役のような。
「状況がつかめない。説明して。」
私はその子役が次のセリフを言いやすいように、わかりやすい言葉選びをし、場面転換を図った。
「わかった!」
その卵はそれにまんまとはまり、つらつらと話し始めた。
「僕は卵。君の卵。でもでも、僕は家に帰らなければならないの。君にやってほしいことは一つだけ。僕を家に送り届けて。」
「家はどこにあるの?」
「僕は卵だよ。そんなの知るわけがない。それを探すのが君の役目!」
そんなこと不可能に近い。そもそもこの卵が何の卵かも知らないのだ。生息地も知らない。いや、まて、そもそもどうやって話している?私の頭の中に矢継ぎ早に疑問が駆け巡る。
「それ、やんなきゃいけないの?」
「いや、やらなくてもいい。ただし、その後に待っているのははじまりだよ。」
「もうすでに何かが始まってるきがするんだけど。」
「楽しくないはじまり。」
「楽しくないはじまり?」
「そう、楽しくないはじまり」
卵はさみしそうな声でそういった。
「楽しくないはじまりってなに?」
私は聞く。
「見てみなよ」
そう言われて、私は海を見た。鳥肌がたった。さっきまで穏やかだった波は急に表情を変えていた。しかし、ただ海が荒れているだけではない。波が高く上がり、その中には無数のなにか。いや、あれは手だ。波の側面いっぱいに広がる無数の手。手は明らかに普通の大きさではない。波にのまれたサーファーなどではない。波が上がるたびにその手が手招きをする。私は招かれざる客ではなく。招かれる客なのだ。
「もう近い。近づいてくる」
卵がおびえる。
しばらくすると波は静まり、あたりの風景は日常へと戻る。
「あれは、なに」
私は震えながら訪ねる。
「あれがはじまり。はじまりのしっぽ。」
卵がそう答える。
「説明になってない!あれは何!」
私の声が少しうわずる。
「はじまりははじまりだよ。君が僕を家に届ける理由はわからないかもしれない。でも届けなきゃいけないことは分かったよね。怖がらせたいわけではないの。ずっと前に決まっていたことだからそれを伝えただけなの。嫌いにならないで。」
卵は続けた。
「はじまりは近づいてきている。けど、まだ時間がある。いまから動けば日常を壊さずに僕を届けられる。」
「つまりどうゆうこと?」
卵は答えた。
「仕事に行く時間だよってこと。」
私は時計を確認し、慌てて自転車に飛び乗った。
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