【短編】エレファントスイング
この夜だけは独りを許してくれる。
夜は思っていたよりも長くて、思っていたよりも明るかった。僕はこの「安全」がまだ続くことに胸をなでおろした。明日のことなど考えられないから。起きているのに、眠っているようだ。
最後に望んで眠ったのはいつのことだろう。次に望んで眠れるのはいつのことだろう。
◇◇◇
外に出ると冷たい空気が鼻から入り、体の中で溶けた。
月に冷やされた空気が体温になじんでいく。
その日は月がいつもより大きくて、そして赤みがかっていた。そのまま月を見つめていたらそれがどんどんと大きくなってくる。近づいているんだ。近づいてきた月はゆっくりと振り返る。その月には長い鼻がついていた。
それはゆっくりと地面に降り立つ。
そして、パンッ。いきなり月が割れて中から太った象が出てきた。象は皆太っているように見えるけど、その象の腹は人一倍(象一倍?)膨らんでいて、二足歩行していることでなおさらその腹が目立って見えた。小さな耳に、長い鼻。その奇妙な二足歩行の象は蝶ネクタイをしてタップシューズのような革靴まで履いていた。
象は手に持った杖によりかかってこちらを見て笑っている。象の体重がかかった杖はまるで弓の様にしなり今にも跳ね返りそうだ。
「今、君の耳には何が流れているんだい?」
象は僕に話しかけた。
「音楽のこと?」
「そうさ。何を聞いているんだい。」
「パド・パウエルだよ。」
象にJazzがわかるはず無いと思ったけど、僕の予想とは裏腹に象は眉を少し上げて嬉しそうな顔をした。
「パド・パウエルの『ダスク イン サンディ』?それとも『ファンタジー イン ブルー』かな?」
「違うよ。『I’ll keep loving you』。」
「おー、そうかそうか!」
象は楽しそうにそう言って、そのままくるくるとまわりながらスローテンポで踊り始めた。
短い脚を器用に動かしながらステップを踏む。踊りの踊れる赤ちゃんのようだ。
一通り、踊り終えると象はまた僕に何を聞いているのか尋ねた。
「次はチェットベイカー。」
「チェットベイカーなら名曲『Autumn Leaves』を頼むよ。」
「何で象に僕の聞く音楽を決められなくちゃならないんだ。」
「でも、曲名を聞いたこの瞬間から君の頭の中にはこの曲が流れているはずだよ。だから今、君は記憶の答え合わせをしたくてたまらないはずだ。」
悔しいが、象の言う通りだ。
僕は言われるがまま『Autumn Leaves』を流した。またしても象は音楽に合わせて踊りだす。僕はヘッドフォンをしているから象は音楽が聞こえないはずなのに、彼は寸分も違わないリズムで踊る。見ている僕の体まで動き出すぐらい軽快に。
しかし、今回は曲が止まっても象は踊るのをやめなかった。それどころか象のステップを踏む脚の速度はどんどん早くなる。象の靴が固い地面に当たって音が鳴る。
トン、トン、トン。
象はこっちをみながら自慢げに笑みを浮かべている。音はどんどん早くなる。あまりにも象が楽しそうに踊るもんだから、それを見ていた僕もなんだか楽しくなってきた。僕の体はリズムに合わせて揺れ始め、そのうち足が象と同じ動きをし始める。
トン、トン、トトン、トン、トン。
段々となにかのリズムになっていく。
トン、トン、トトン、ト、トン、トトン。
象はそのリズムを保ちながら僕にウインクをした。それを見た僕は全てを察して、思い切りウォークマンの再生ボタンを押した。『Sing Sing SIng』だ。
◇◇◇
耳から流れ込む音はそのまま体にめぐっていく。
踊る。踊るんだ。誰も見ていない。だからこそ踊るんだ。
体を揺らして、軽快なステップを踏むんだ。
象でもありを踏まずに踊ることができるのさ。
踊れ、踊れ。誰も見ていない今がチャンスさ。
踊れ、踊れ、踊れ。
◇◇◇
象と僕は一晩中踊り明かした。太陽が上がるその瞬間まで象は僕の目の前にいた。確かに、踊っていたんだ。
僕の額に流れる汗は本物で、頭を駆ける音楽も本物だったから。
やっぱり僕は起きているようで眠っていたのだ。
そのとき、昇ったはずの太陽が振り向いてこちらを見た。その太陽には長い鼻がついていた。
象がいる世界に朝は来ない。きっと僕はまだ夢の中にいる。
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