「他人」を活用してみる
小児科の待合室。
2月の小児科はかなり混んでいる。
前日に時間帯予約をしたが、予約があっても30分程度待つ可能性を受付で知らされた。
診察室から嫌がって泣いている子の声と宥めて励ます大人の声が聞こえる。
体調不良な子どもたちがスムーズに診察させてくれないのはわかる。
待合室は広く、それぞれの親子が少しづつ離れながら座っている。
親に抱っこされたまま眠っている子や、つらさからぐずっている子、マスクを付けてだるそうに親に寄りかかって座っている子もいた。
私の横に座った子は、すこぶる元気でお母さんに向かって何やらしゃべり続けている。
どこか調子が悪いのだろうか?
不思議に思いながらも、その子の発するキーワードが心に引っかかってしまう。
「◯◯ちゃんは死んじゃうー?」
「◯◯先生は、お休みしたから死んだの!?」
その子にとって、おならぷー!とか、うんち!とかと同じくらい魅力的な絶賛ヒットしている言葉なのだろう。
聞こえないふりも不自然なくらい大きな声で連発している(笑)
お母さんは静かにするようになだめたり、その言葉を使う我が子に困っているようだった。
だから「他人」としての私を、活用してみる。
「こんにちは」
「元気だね~もう治ったのかな~?」
「いいなーいいなー」
なんて声をかけながら、聞いてみる。
「ねーねー、死んじゃうってさ、もう会えなくていっしょに遊んだり笑ったりできなくなるんだよ。知ってる?」
笑っていたけれど、私の顔を見て「他人」を認識したのがわかった。
かわいい顔と目の奥に、その子の賢さが見える気がした。
その後も長い待ち時間に飽きてしまっていたが、「死ぬこと」に関するおしゃべりは出てこなかった。
おならぷー!とか、うんち!とか
そんな勢いで言葉にしていたそれは、ちょっと違う空気を纏う言葉なのだ。
なんとなく、なんとなく・・・
小さな子どもでも、そのときにわかる範囲でわかる。
自分のふるまいを家族以外の人にも見られていると気づくには、こちら側からのノックが効果的なのかもしれない。
わが子には使えない「他人」という立場。
だから、わが子以外の誰かに「他人」である自分をいくらでも差し出そうと思う。
世界を1mmくらいならだれでも動かせる。
早く良くなれ子どもたち。
看病おつかれさま、おとなの皆さん。