新興宗教の家庭で育った子どもが思うこと。
私が幼児期に大病をして、母はすがるような思いであらゆる宗教の門を叩いて回っていた。あと3日程度で我が子の命があぶないとなれば、自分が親になってみると、そうなる気持ちもわかる気がする。
教会や山の奥の神社・・・あちこち出向いて、結局は1箇所に落ち着いた。私自身は特に何かを強制されたこともなくて、ゆるーく在籍しているだけな感じ。
定期的な集まりに行くとお菓子を貰えるし、いろんな子と遊んで過ごせていた。
面白かったのは、大人の矛盾が垣間見えるとき。
母曰く、その宗教の人たちは、みんな優しくて助けてくれるし、本当にいい人だと言っていたんだけど、タバコ吸って花壇にねじ込んでる人とか、ツバはいてる人とかいたし。
子どもながらに「あれはいいひとのやることなのか?」と思っていた。いい人かもしれないけれど、私は嫌いだと認識していた。だから、そういう人に対して自分から近づこうとはしなかった。
で、その宗教の中に、対立する宗派を名指して「地獄に落ちるように祈るのよ。」と言っているおばさまがいた。とてもきれいな方だけど、地獄とか言う(笑)人の悪口は言ってはいけないよって大好きなE先生(小学校の担任)は教えてくれたのに、誰かが地獄に落ちるように祈ると言う大人たち。とても気持ち悪い、幼いながらにこの人たちのことを「いい人」だと形容することはできなかった。
ほいで、それ(それを含めた経本を読むこと)を毎日6時間とかやって自分の幸せにつなげると平然と言う。そうやって声を出して経本を読み続けていると経本の文字が歪んで迫ってくるようになると言う。
いやもうそれ、そんなこと6時間もやってたらさ、なんだってそう見えてくるだろと思った。
そんなことに大切な時間を6時間も費やす。
私は絶対に嫌だと思っていたし、母が熱心なだけで子どもの私に強制してこなかったのが幸い。
母の知り合いの子は、毎日正座して何時間もやっているって聞いたとき、心の底から、その子がかわいそうだと思った。
長い長い経本を丸暗記していることを、その子のお母さんは得意げに話していたっけ。
私の病気も年に一度の検査だけになっていって、母の宗教への熱も少しづつ落ち着いていった。母自身も名前だけ所属している感じで子ども達が巣立つ頃には、この宗教団体のコミュニティを必要としなくなっていったのだと思う。15.6歳の頃には兄弟とともに、その宗派の矛盾や違和感を壮大なギャグとして笑い飛ばしていた。
(noteを書きながら本当に宗教による実害がなかったか?思い起こす。そのことは別でまとめてみようと思う。)
そして私自身が出産し、長男を抱っこして実家に帰省する途中、小学生低学年の女の子と母親らしき人に何かの宗教に勧誘されたことがある。
その母親は「今、幸せですか?」「ほんとうに幸せですか?」としきりに問いかけてきた。
私は十分幸せに生きているし、間違えなく自分に生まれてきてよかったと思っているし、これからもけっこうラッキーに生きていくと思っているので、何を言われても、ピンと来なかった。
ただ、母親の横にいる女の子が気になって仕方なかった。警戒か、不信、おびえ、不満・・・?
勧誘し続ける母親を無視して、女の子に「お友達と遊んでるの?」と声をかけたけど、余計につらい気持ちにさせてしまったんじゃないか?今も何をどう声をかけたらよかったんだろうと思う。残酷な問いかけをしてしまったのではないか?悔いが残ったままだ。
その子は一歩下がって、下を向いてしまった。
親の熱心さに振り回される子ども。
あの子は、一日中あんなふうに色んな人に声をかけては、あしらわられている親の姿を見続けているのかなと思うと苦しい。
その母親を振り切ったあと、振り返ると、引っ張るように子どもの手を引いて別の人へ声をかけようとしている親子の姿が見えた。(この親子によく似た話は映画:「あかぼし」で観ることができる。)
宗教に家庭を壊されたり、親子関係や友人関係を壊されたり、壊してしまったり、幸せになりたかっただけの人たちが不幸になっていく。
なんともやりきれない。
ただ、宗教に救われる人もいるし、そのコミュニティがあったから孤独から免れたひともいると思う。
宗教との関わり方は人それぞれ。私のように幼い頃に見てきた大人たちの断片によって、大人たちを不完全なものとして見る練習になった子もいるだろうか。
誰かにとって「優しくていい人」でも、誰かにとってそうではないこともある。誰かにとって「幸福な世界」は誰かにとってそうではないこともある。
母親の後ろに隠れていたあの子は、どうしているだろう?
あの子に会えたら、なんて声をかけるだろう?
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