頂いたネタをボツにする時、考えてたこと
執筆日:11月16日
悩ましい。
昨日の竜真会議は非常によかった。
メンバーのバンジーチャレンジにナイスを送り、もう一人が踏み出した一歩に賞賛を思った。
「それをネタにnoteを書きたい!」
そんな思いが僕の中にあるのだけど、書くかどうかを迷っている。
なぜなら人の行動に賛辞を送るため、他の人を貶そうとしているから。
表現とは難しいもので、どれだけいいものを作っても全員に肯定されることは無い。
例えば「人を殺すのは良くないよね」と表現したとしても「国を守るために戦ってる人がいる」と言われてしまえば反論できない。
しかし殺しの否定を折るわけにはいかない。
だけど国を守るために戦う人を非難する気にもなれない。
僕にできることは僕の主義主張を貫くだけ。
自分の意見を折ることも、相手の主張をねじ伏せることもしない。
「殺しの否定」は命にだけ適用されるわけじゃないから。
表現だって生きている。
生きた時間から生み出される命ある表現。
それを殺すことは否定したし、僕が折れて殺されることも否定してる。
表現をする以上、反対意見が出るのは覚悟している。
全員に受け入れられないのも理解している。
だからせめて、読んでくれるあなたが躊躇無く受け入れられる表現にしたいと思う。
そのためにはやっぱり、人を貶すような表現はするべきじゃ無いな。
僕がやろうとしたことは攻撃を防御して押し返すこと。
自分の中では正義である。
だけど読者は違う。
普通に読んでくれているだけだ。
その人達を巻き込むことは本意じゃない。
読者を巻き込んでいくやり方は、こうゆうコンテンツ発信の常套手段。
何か共通の目標を定めてそこに向かっていく仲間。
ただその共通の目的が「打倒〇〇」みたいなものだとしたら?
その集団を熱狂的に支持する人が現れるかもしれない。
だけど反対に徹底的に否定する派閥も出てくる。
行き着く果ては「分断」だ。
それは一時のムーブメントを起こすかもしれない。
だけど後に反省することになる。
その行動自体には正義がある。
だけど勝敗がつく以上、敗者の正義は異端となる。
僕がへっぴり腰の弱虫なのかもしれないけど、できる限り戦いたくない。
戦うことなく浸透していき、一時的なものじゃなくて一つの価値観にしていきたい。
そのためには否定されても折れない「強さ」と、防御以外はしない「優しさ」がいる。
悩んだ原因は、攻撃されたわけじゃないのに仕返ししようとしていたこと。
否定の言葉は僕に対してのものじゃない。
それをしてしまうと遠くに行ってしまうと感じたから引き留めようとしているだけ。
その表現は人を否定するような意味合いを表しているけど、本音は自分の位置が下になるのが嫌だという表現なのだ。
自分に対する表現が人を介さないと伝えられない。
そうゆうもの。例え話みたいなもの。
だから気にすることは無い。
否定の言葉を文面上だけで判断しない。
それは多くがひとりごと。
表現したいことがあるのなら素直にそのまま表現すればいい。
今日は表現したく無いことを表現した。
新しい考え方もできたし満足。
豊かで幸せに生きる表現者であれ!
ということで終わり!読んでくれてありがとう。スキやコメントよろしくね。
じゃあ、また。
【過去noteもよろしく!】
【~猿説譚~第一弾『表現者の魂篇』発売中!】
あなたも表現者にならないか?