言葉に溺れる
自分の中に言葉が積もってゆく。私に発されず似て腐ってしまった言葉は、ヘドロのような臭くて汚い塊になる。私はその中で立ち泳ぎしていて、ときどき飲み込まれて息ができなくなってしまう。それは実在しないはずなのに、溺れるときはしっかりと見える。すごく怖い。そのヘドロの海の汚さと、もがいて見上げる空の青さがあまりにも違いすぎて怖い。
「誰か助けて!」と叫びたくても、また言葉が駄目になるんじゃないかとためらってしまう。「みんなもそうなんだから」と返されてしまった言葉は、行き場をなくしてもう二度と使えない言葉になる。そして、私という大きくて小さなごみ置き場で次の言葉に押しつぶされてしまうのだ。こんなふうに言えないことがだんだん増えていって、私の中の言葉だったものの形がなくなっていく。
私は聞いてほしい。体からもう形のなくなってしまったそれらを紐解いて、言葉にして成仏させてやりたい。ヘドロから救い出し、美しい宝石や後世の資料になる化石にして、私の体を私の人生の博物館にしたい。こんなこともあったなと、整理して並べられたそれらを一歩下がって眺めるのだ。
私は夢想する。いつか安心して暮らせる日々を。呼吸の浅さを気にしなくていい日々を。言葉を時間の水流に乗せられる日々を。
こんな人間に
日々は積み重ねるものだと28歳にしてやっと気づいた私は、過ぎ去った時代を前に膝をついた。私は自分の力で何も積み重ねてこなかった。大きな柱が必要と聞いて、急いでハリボテを用意した。周りは植えるところから始めて、大切に育てていたというのに!何も支えられずぺしゃんこになったハリボテだけが私の手元にある。
それでも人生100年時代。私はまだ若いと、いくらでも取り返しがつくと、こんこんと自分に言い聞かせる。鏡を見ると、何の準備もしないまま大人になってしまった私は、子供が抜けきらないのに老けている奇妙な顔をしていた。
「私なんてきっと『誰も知らない』みたいに、ゴミにまみれて床のシミになるんだ!」と、バイト先の大学生が笑って言ったのを、物で溢れた部屋の、地べたに引いた布団で反芻する。目の前のゴミ袋が私に「こんなのはよくある話さ」と慰めているようで、そんな時は涙が出てから感情が追いついてくる。私は「こうはなりたくない人」でしょうか。
顔色をうかがわないこと
7月の雨上がり、少し暑さがマシだった今日、3年ぶりに10年来の友人2人と京都で会ってきた。からふね屋でおいしいものを食べながら近況を話し、その後ボードゲームカフェに行って遊んだ。今日初めて知ったことだけど、私はボードゲームが強かった。ボードゲームが強いことがなんの足しになるかはわからないけど、嬉しかった。2人が「つよいね〜」と言ってくれたことが、「つよいね〜」が、私の脳内で「おもんない」に変換されなかったことが、嬉しかった。
多分私は自分勝手なんだと思う。からふね屋でも私だけがランチとパフェを両方食べた。協調性もなくて、自分がやりたいことばかり考えている。小中学生の頃、「私が楽しい」は「みんなが楽しくない」という方程式に行き着いてしまった。それは私の中では証明されたも同然で、いつも必死に「みんなの楽しい」を探していた。そんなふうにして選ばれた「楽しい」はきっと誰にとっても楽しくなかったと思う。空回っていた私は滑稽だっただろうけど、私は自分で経験したことしか実感を持って考えられないから、私には必要なことだったんだと思う。気づくのは遅かったけど気づけてよかったと思う。
記憶
嬉しかったたことを覚えていたい。いつからか、1日前のことでさえ、思い出そうとすると頭が真っ白になって胸がザワザワするようになってしまった。全ての記憶はいらない、私を苦しめるだけ、そんなふうに引き出しにしまい込んだ記憶の中には、今日のボードゲームのようなささやかな幸せがいくつかあるのだろう。『千と千尋の神隠し』で好きなセリフがある。
「一度あったことは忘れないものさ、思い出せないだけで」
引き出しにしまい込んだ記憶も今日の私を作っているのだろう。ヘドロの海の中でも青い空が見えるのは、そういうささやかな幸せを忘れずにいられるからだろう。
もしかしたら思い出すという行為は、積み重ねることそのものなんじゃないかと思う。忘れないでいることは、骨身になるということなんじゃないかと思う。だとしたら、私はずいぶん骨太になったんじゃないかな。面の皮も厚くなったんじゃないかな。もうなにも怖がらなくていいんじゃないかな。積み重ねることも、できるんじゃないかな。
言葉を流す
他人に話すのが怖い。言葉にするのが怖い。もうそんな自分を許してあげたい。私は自分を抱きしめられるだろうか。いや、ほんとは引き出しの奥にしまってしまったけど、抱きしめ方知ってるんじゃないかな。そんな気がする。だってもうどんなに苦しくても破滅的なことしなくなったから。つたない文でも書けるなら、それは話すことと一緒だから。
私の言葉が誰にも読まれなくても、誰にも伝わらなくても、ヘドロになってしまっても、どんな形でも放流することで私が救われるなら、そのためにもがくことを私は諦めたくない。