待つことの覚悟 【京都新聞「現代のことば」 #1】
初出:京都新聞夕刊1面、「現代のことば」、2024年8月20日
アフリカのタンザニアの森の中で暮らしているチンパンジーの調査・研究をしています、と自己紹介すると、何かものすごい「ジャングルでの探検」をしているかのように思われることがあるのだが、森の中での調査では「ただ待っている」時間が思いのほか長い。
まず、毎朝森の中でチンパンジーを発見するところから一日の仕事が始まるのだが、やみくもに探し回っても見つからないので、高い丘に登ってチンパンジーの鳴き声が聴こえてくるのを待つことになる。すぐに声が聴こえてくることもあれば、2時間待ってもまったく鳴いてくれないこともある。いつ聴こえてくるかはチンパンジー次第。
運良くチンパンジーが見つかると、そこから森の中での追跡と観察が始まる。藪をかき分け、地面に這いつくばってチンパンジーのあとを追いかけているときは「ジャングルでの探検」的な趣もなくはないが、チンパンジーもむやみやたらと突き進むわけでもなく、食べ物が見つかったらダラダラと食べ続け、食べ終わったらゴロゴロ休む。もちろん観察や記録は続けるが、チンパンジーが動き始めるまではまた待つのみである。
研究のためにチンパンジーの行動をデータとして記録するのが仕事なのだが、「自分がほしいデータ」が思った通りに手に入るわけではない。チンパンジーにはチンパンジーの都合があり、気ままにふるまうだけなので、チンパンジーが「たまたまこっちが見たい行動をしてくれる」のをただただ待つしかない。
こっちが「観察する側」で、相手が「観察される側」なので、なんとなくこっちが「主体」のように思ってしまいがちだが、実際には相手が好きなようにふるまう「主人」であり、こっちはそのあとをただ付き従うしかない「従者=フォロワー」なのである。体力とやる気に満ちている日もあれば、疲れて集中できない日もあるが、フォロワーとしての覚悟を決めて、相手の意のまま気の向くままのふるまいを「ただひたすらに待つ」ことが、研究者としての自分が森の中でチンパンジーと向き合うときの最も基本的な姿勢だと思う。
ところで、我が家には子供が3人いる。日々の子供たちとの生活もまた、相手の気の向くままのふるまいに身も心も翻弄されつつ、新しい世界を見せてくれるその奔放さにすっかり魅了されている、という意味では、森でチンパンジーを追いかけているときとさほど違いはないように思う。しかし、日々の子供たちとの生活で「ただひたすらに待つ」ことは、思いのほか難しい。親として子供にできることは、どこまでもフォロワーであり続けることだという覚悟が、まだ私には足りていないのかもしれない。そんなことを思いながらも、また毎朝のように「早うしいや!」「遅れるで!」と子供たちを急かしてしまうのだろう。森の中でも家の中でも、フォロワーとして「ただひたすら待つ」ことへのたゆまぬ修行が、まだまだ必要なようである。
(京都大研究員、京都工芸繊維大研究員、人類学、「現代のことば」2024年8月20日夕刊掲載)
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動物研究者の自伝シリーズ <新・動物記> を編集しています。