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クリスマスの光と影 【京都新聞「現代のことば」 #3】
初出:京都新聞夕刊1面、京都プレミアムコラム「現代のことば」、2024年12月24日
12月になると、街はクリスマスに向けて華やいでいく。きらびやかなイルミネーションを眺めながら行き交う人々の足取りも軽やかに見える。我が家も例に漏れず子供たちがサンタさんの到来を心待ちにしている。
かく言う私は、クリスマスは毎年複雑な気分で迎えている。12月24日は父の命日だからである。
父は私が小学3年生のときに40歳の若さで亡くなった。1年半ほど闘病していたので突然というわけでもなかったが、父が死ぬとは考えたこともなかった。
2学期の終業式を終えて冬休みに入り、翌日からお見舞いに行くのを楽しみにしていたクリスマスイブの夕方、病院から父の危篤を知らせる電話がかかってきた。
冬の夕暮れは早い。田舎の真っ暗な道を車に揺られて小一時間、病院に到着したときには、すでに父は息を引き取っていた。明日には会えるはずだった父は、静かに眠っているようだった。
父が死んだことはまったく実感できなかった。病室に集まっていた家族や親戚のただならぬ雰囲気を敏感に察知して、無理に泣いてみせたのをよく覚えている。やがて父の亡骸とともに家に帰り、大人たちは通夜と葬式の準備にかかりっきりになっていった。
通夜の夜中、布団の中でふと目が覚めた私は、父の枕元へひとりで向かった。誰もいない座敷で、父のそばに座り、冷たくなった父の顔に触れ、手に触れ、ひとり泣いた。そのまま父の体に覆いかぶさるようにして、また眠りに落ちた。
人は自分がいつ死ぬかを知ることはできない。父も自分がクリスマスイブに死ぬとは思ってもみなかっただろう。それ以来クリスマスは父の命日となり、子供心にもサンタを心待ちにするような気持ちにはとてもならなかった。
今年の夏に、我が家の愛犬が17歳で亡くなった。雌のミニチュアダックスで、かりんとうみたいなチョコタンの細長い体形にちなんで、かりんと名付けられた。かりんは活発で気が強く、でも寂しがりで人懐っこい犬だった。
かりんの亡骸をペット葬儀社に引き取ってもらうときに、かりんを火葬してお墓に入れる、と初めて知った6歳の娘が、突然火が点いたように号泣した。娘の激情に、私は強く胸を衝かれた。
人間は9歳頃に死が認識できるようになると言う。しかし、9歳で父を亡くした私には、死は全然わからない、という原体験が今も刻まれている。死についてさまざまな説明はあるが、それが「死の認識」なのかは疑わしい。何しろ誰も死んだことはないのだから。
むしろ、唐突に溢れ出た娘のあの号泣こそが、死のわからなさに正面から向き合っていたのではないか、とも思う。それは、あの日父の亡骸に触れながら、しかし触れることができなかった「あの死の遠さ」を、私に思い起こさせた。
今年、長男が小学3年生になった。この歳の息子を遺して先立った父に、またクリスマスイブの夜に父を亡くした少年に思いを馳せながら、そしてかりんとの思い出にも浸りつつ、クリスマスの光と影を見つめようと思う。
(京都大研究員、京都工芸繊維大研究員、人類学、「現代のことば」2024年12月24日夕刊掲載)
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動物研究者の自伝シリーズ <新・動物記> を編集しています。